菊池神社
(菊池武時胴塚)

場所:福岡市城南区七隈七丁目
 さて、手前か奥かはわからないが、鳥居の文字はなんと東郷平八郎によるものだそうだ。

 ここには菊池武時の胴塚とされるものがある。天保期に城氏の子孫、城武貞という人物が武時公のお墓を特定しようと頑張って、自費で墓石を建てたのが始まりのようだ。
 そもそもここは古墳だったようでここを墓とするのには疑問もったようだが、見晴らしの良いところに亡骸を埋めてもおかしくないとして支持する意見が強かったようだ。

 探題府襲撃に失敗し退却途中、武時公は落命、追っ手を逃れるため家臣は首だけを持ち、胴体をここに埋めたという。
 しかし、後述のように探題姪浜説を根拠としているから、櫛田神社近辺であることが間違いないと言われる今、もし正しいなら順番的にこっちが首塚だろうと言われている。改修時には髑が4つでてきたらしい。
 したがって、六本松で首が落ちたものの、騎乗のままここにたどり着いたと勘違いされることもある。

 さて平泉澄氏によると、貝原益軒の筑前風土記にはここに塚があるとは言っているけど武時のことは言及されていないし、そもそも昭和期に入ってこの塚で刀を拾った人間の夢に「武時が騎馬で現れた」ことがきっかけに墓だと言われるようになったにすぎないらしい。
 もちろん、墓説を支持する議論もあるらしいが、それはそもそも探題の場所が姪浜であることを前提にしているから、姪浜ではなく博多であることが明らかになっている以上、誤りとのことだ。
 しかしまぁ、それがわかった上でも、こうやって祀ってもらえているのだからいいんじゃないかと個人的には思う。

 武時が再興した山鹿の日輪寺には供養塔がある。

ブログ
 拝殿。この日はクリスマスイブだったが、福大生と思しき男子学生がふらりと自転車でやってきて、お参りを済ませてすぐ帰って行ったのが印象的だった。
 本殿の背後のこんもりとした部分に石碑がある。藩の要人、吉留杏村という人物による字らしい。

 後でわかったことだが、ここは神域で立ち入り禁止だった。しっかりお詫びをしておきました。