松吟庵正福寺
(菊池武士墓)

場所:八代市二見下大野町
 元西福寺だから「せいふくじ」かもしれない。松吟庵とも言うらしく、ここが武士終焉の地とされる。 
 墓碑は非常にわかりにくい場所にあるので、手前の家に住んでいるお寺の人に一声かけていこう。表面には「菊池十四代肥後守武士」、裏面には「祖禅寂照和尚応永八年三月廿五日九十一歳」と刻まれているらしいが、よく見えない。

 墓碑の背後には、「墨染めの桜」から持ってきたという桜の木がある。まだまだ若い。
 さらに後方には「王の墓」なる墓域がある。解説によると、菊池当主の墓とはだいたいセットになっているそうだ。言われてみれば、それらしき五輪塔があるお墓が多かったな。
 「王の墓」の側には二見城主の墓も移されていた。写真は省略。

 武士と言えば武光に家督を譲った(奪われた)後は諸国を旅した御仁だが、お寺の方の解説によるとスパイやってたそうだ。ホンマかいな。

 また、菊池氏の家紋は本来「違い鷹の羽」だったのに、庶子の武光が自らの正統性をアピールするために、並び鷹の羽にむりやりとっかえたと解説なさっていたが、ならば『蒙古襲来絵詞』で描かれている武房の並び鷹の羽紋はどう説明するのだろうか。隆直の時から並び鷹の羽だったとする文献も多いぞ。

 第一、家督を奪った武光に、しかも武光が武士の存在を否定しようと躍起になった(お寺の人談)のであれば、そんな武光のためにスパイ活動するだろうか。

 また、武光が庶子であるのはたしかだが、かーちゃんの赤星有隆女は第13代武重と一緒だぞ(これは武士ご子孫作成の資料にもある)。そこまでコンプレックス抱える必要があるのかな。
 親切に解説していただいたのには感謝だが、色々と疑問が残った。