筑前有智山城

場所:太宰府市大字内山
 大手口の石塁と空堀(上)、主郭の石累(左上)、井戸跡(左下)などが残る。

 何度も落城しているお城だが、「なるほどね」と言いたくなる感じだ。某書には「四方が絶壁になってテーブル状の台地にある」とあるが、それっぽくは全くない。

 ただし、この遺構は南北朝期っぽくなく、有智山城は確かに実在したが、このお城とは別物だという議論もあるらしい(『福岡県の城郭』)。
 菊池武敏と阿蘇惟直が少弐貞経を大宰府に攻め、子・頼尚を足利尊氏の元に派遣していて留守役だった貞経は浦ノ城を放棄して有智山城に逃げ込んだ。
 さらに攻め寄る武敏の前に防ぎきれず、貞経は「尊氏のために用意した武具を焼かれてしまった」と腹をかっ斬って臥しにけり。武敏は見事に父・武時の仇を討ったのでした。わはは。
 ただし、どうも有智山城は完全に落ちた訳ではないようで、尊氏を迎え撃つため急遽北上した武敏は、背後に敵を抱える形になったのである。