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博多に上陸した蒙古勢は現・福岡城あたりの大宰府警固所を目指して進軍した。そこに立ちふさがったのが我らが菊池武房だ。
要所の赤坂(あかさかのちん)に陣取って蒙古勢を大いに撃破し、祖原山等に追い返した武房の身なりは、紫逆沢瀉の鎧で赤の母衣を懸け、芦毛の馬に跨っていたという。目撃者の竹崎季長さんによると、その軍勢は百余騎で、武房は敵の首を二つ太刀と長刀に貫いて左右の部下に持たせていたという。思わず「かっけぇ…」と漏らしたと述懐する竹崎さんは、武房と言葉を交わした後、敵陣に突撃して死にそうになっている。
この時武房30歳。蒙古勢を撃破したものの損害も大きく、武房の弟・菊池康成は重傷を負った。同じく弟・赤星有隆は敵将を生け捕ったというが、返り血で甲冑が赤くなったので「赤星」を名乗った(or姓を天皇から賜った)との説があるが、これは嘘で地名から取ったはずだ。
武房の活躍もあり、蒙古勢は筥崎宮を焼いたものの、警固所を占領するとはできず、数日待って撤退した。
一日で日本勢が水城・大宰府まで日撤退したというのも、一日で蒙古勢が撤退したというのも、どうやら誤りのようである(詳しくは服部英雄『蒙古襲来』)。つなると、少弐景資が追撃してきた敵の副将・劉復亨に矢で重傷を負わせたのも誤りとなり、実際は夜襲で傷を負わせたものと考えられる。
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