元寇・弘安の役

写真:生の松原地区石築地
 文永の役の後も幕府は元の使者を処刑するなど相手にしなかったため、元軍は二方面から侵攻を開始し、東路軍によって壱岐(と対馬もかも)はまたも蹂躙され、船匿城の少弐資時は寡勢で奮戦するも戦死した。
少弐の千人塚 少弐資時墓
 なお文永の役後、幕府は大陸に逆遠征するか、石築地建築するかを御家人に命じたという。逆遠征なんかできる訳もなく、みな石築地を選び、生の松原地区を担当したのは肥後国で、菊池武房もここだった。
 ここでまたも肥後の竹崎季長さんが、石築地の上でくつろぐ菊池勢を目撃し、後にその時の様子を絵師に描かせている。その時竹崎さんは、「文永の役で一番活躍したのは武房さんだった」と述懐している。
菊池武房 赤星有隆 どれかが「たかまさ」
その他の石築地(元寇防塁)
箱崎 西南学院大学内 西南学院大学付近
地行 藤崎 小戸@
小戸A 今宿 横浜
 以上は各地に再現、保存されている元寇防塁。元軍はこれらを超えることができず、「前回で慣れたぜ」という日本軍に撃退される。そこで元軍は志賀島を拠点として対峙することになった。
今津
 困った元軍は鷹島へと集結し陣容の立て直しを図る…というのが通説だったが、志賀島を放棄する理由がないというのが服部英雄説だ。
 ということは、竹崎季長が船で向かったのも、鷹島ではなく志賀島だ。必死に手柄をあげようとしたが船がない。そこで安達泰盛の命令と嘘をついて船に乗り込もうとするが、ことごとくバレてしまう。
 かわいそうになって、竹崎さんだけでもと乗せてあげたのが「たかまさ」だ。竹崎さんの「絵」では「たかまさ」が「大矢野兄弟」と後に改ざんされているが、「詞」を見ればすぐ「たかまさ」だとわかる。これは菊池武房と共に参戦していた菊池一族の西郷隆政の可能性がある。この優しさ、きっとそうに違いない。この時、竹崎さんは兜を従者に預けたまま乗り込むなど、あわてんぼさんだったようだ。
亀山上皇像 今津の「元寇殲滅之処」碑
 志賀島では日本勢の奮戦、鷹島では暴風雨で残された元軍掃討で、撃退に成功する。
 しかし朝廷は「俺らが敵国降伏を祈願したおかげで勝ったのよ」と思い、幕府も「けど恩賞ねーよ」と十分報われる者は少なかった(文永の役後、竹崎さんは鎌倉まで押しかけて恩賞を貰っているが例外)。これが幕府への反感へと繋がっていく。

 また、「日本は神国。日本良い国強い国」、とにかく神に祈って信じていれば勝てるという勘違いをもたらし、各地に元寇関連の史跡が乱立することになった。「元寇殲滅之処」碑については、そもそも殲滅と関係ないここに建てる意味がないと、揉めたこともあるらしい。また、博多湾から引き揚げられた碇石を、戦意高揚のために元軍のものとして各地に設置した。しかしほとんどは商船のものだろうと教えてくれたのは、福岡市埋蔵文化財センターの所長さん(=東長寺前の人骨発掘を担当した方)。
 手痛いしっぺ返しを食らったのはつい数十年前のこと。これに懲りたはいいが、今度はその反動で「とにかく平和を叫んで信じていれば、敵は攻めてこないし平和になるはず」という勘違いをしているのが現代社会であり、今も昔も本質的には変わっていない、との誰かの指摘は妥当だろう。
志賀島の蒙古塚
今津の蒙古塚@
今津の蒙古塚A