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場所:久留米市山本町豊田 |
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1180年、1192年、草野永平によって開かれたという。
ごらんの通り、秋には紅葉がきれいでテレビも訪れることがあるお寺だが、南北朝に縁のあるお寺でもある。
草野氏と言えば筑後川の戦いでは南朝方として奮戦したが、時には北朝につくなど複雑な立場にあった。
ここには懐良親王の墓と称するものがある一方で、「北朝」と刻まれた梵鐘もあるのだ。 |
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とりあえず順番に史跡を見ていくことにしよう。
まず飛び込んでくるのが田中忠政の供養塔だ。田中吉政の子で柳川藩二代目藩主だったが、嗣子がなく改易となり、その後に立花宗茂が返り咲くことになった。
その意味では、立花ファンが感謝すべき人物なのかもしれない。 |
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ところでここは将軍山公園ともいうらしい。
田中忠政供養塔から少し登ると、途中に懐良親王の宝筐印塔がある。何でも、ここでは親王は筑後川の戦いで受けた傷が元で死んだことになっているのだ。いくらなんでも無理があるが…。
でもって、火葬した場まで特定しており、さらにここを登ったところには「懐良親王御陵墓」と書いた墓碑もある。もちろん、宮内庁が認めているのは八代のヤツだ。文句言われる前に「(伝)」くらいつけた方が良いのではないかとよけいな心配。 |
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よけいな心配はおいといて、宝筐印塔の横には左から草野永経、永平、重永の墓、その背後には筑後川の戦いで戦死した面々のものとされる小さな墓碑が複数ある。名前を見るに、親王を守ろうとして戦死した公家武将たちのものだ、なむ…。 |