後に大内義弘は大友の豊後勢、中国の毛利勢を率いて今川軍と合流、その数一万騎。嘉瀬川沿いの千布・蜷打で菊池軍5千騎(武朝、武義、武安、武国、武元、阿蘇惟武ら)と激突した。写真の通り、相変わらず兵力差無視してだだっ広い平地での決戦が好きなようで。
武朝が先頭を切って今川軍先陣の仲秋軍と激突。武義、武安は500騎で大友親世を攻撃したが、背後を大内勢に攻められ苦戦に陥ったところを、阿蘇惟武が救援し乱戦となった。
武国、武元コンビも今川貞世本陣に殺到したが、豊後勢の田原氏能に防がれ後退し、長期戦となる。
こうなると数に劣る菊池軍は不利となり、まず武義が矢を受けて斃れ、それを救援しようとした阿蘇惟武が戦死した。さらに武安も戦死すると、武朝は武国、武元らと親王を守って菊池へと撤退した。
副将格の武義、武安、さらに盟友阿蘇惟武を失った菊池軍は、じり貧となっていく。 |