T.菊池氏の起こり |
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1.『菊池武朝申状』 |
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菊池氏に関する資料は少ない。その中で、本来の目的とは別の意味で貴重な資料となっているのが第17代菊池武朝による『菊池武朝申状』だ。
今川貞世を前に苦戦続きの武朝に対し、一族や名和顕興ら反勢力分子が武朝と良成親王を批難、朝廷に中傷を行った。讒訴にあった武朝がキレて朝廷に提出したのがこの申状であり、いかに「俺たち一族が朝廷に尽くしたかしってるの!」と延々と訴える内容になっている。
結果的に朝廷は武朝と、武朝と同調して申状を提出した葉室親善を支持したのだが、この申状は菊池一族の系譜を知るための貴重の資料になった。でかした武朝!
菊池一氏が「自称(これ重要)」藤原姓であること、それゆえ自らを王族エリートと自覚し、そのプライドから武家方ではなく朝廷(南朝)へ一途に尽くした理由がうかがい知れる内容になっている。 |
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2.藤原政則 |
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『申状』には「中関白道隆四代後胤太祖大夫将監則隆、後三条院御宇延久年中、初めて菊池郡に下向…」とあり、初代菊池則隆(太祖)が関白藤原道隆の末裔であると「自称(しつこいけどこれ重要)」している。現在では武朝のはったりはばれてしまい、さすがにこれには無理がある、大宰権帥藤原隆家第一の郎党であろうというのが通説となっている。
則隆の父、大宰大監藤原政則は左大臣藤原道長、大納言藤原実資と交流があった模様である。『源氏物語』の「玉蔓」において、「大夫の監とて、肥後の国に、ぞう広く、かしこにつけては、思えあり、いきほひ厳しきつは者」が玉蔓へ言い寄る恥ずかしい姿が描かれているが、これを政則とするのはなかなかの説であるという。
このときの大宰権帥が藤原隆家であり、刀伊追討に活躍した政則は対馬守に任じられたという。対馬をさらなる刀伊の進入から守るために、右大臣実資の推薦もあり武芸に秀でた政則が抜擢されたという。なかなかできる人間だったんだなぁ。
ただし、後になって政則を勝手に菊池一族の系譜に取り込み、さらに藤原隆家につなげたという説もある。個人的にはこれノリだ。 |
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3.肥後下向 |
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1040年4月、押領使として入京した則隆の子・政隆(弟という説もあり)は、前肥後守護藤原定任を暗殺する。中央政府は則隆・政隆追捕のために官符を下したが、藤原隆家第一の郎党であるだけに容易に手は出せず、隆家が「船で逃亡した」と報告をしたのみ。いいかげんだなぁ…。そしてふて腐れて大宰府から肥後に戻った則隆が菊池姓を名乗ったのが、菊池氏の始まりとされる。もともとこのあたりの土豪だった等々諸説あるけど(私はこれノリ)、詳しくは本を読んでくれ。
なお、太郎政隆は暗殺の件もあって家督を相続することはなく、暗殺に無関係だった菊池経隆が第2代となる。政隆は西郷政隆となり、西郷隆盛に続く西郷氏の祖となるのだった。人生わからないなぁ…。 |
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U.苦難の時期 |
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1.治承の兵乱 |
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初代則隆から100余年、菊池氏の動向についてはあまり資料が残っていない。第4代菊池経宗、第5代菊池経直は鳥羽院武者所であり、経直は落馬して死去したということで記録が残っている…。
次に目立った動きが出るのは第6代菊池隆直(嚢祖)の時代になってからだ。平家が政権を握った結果、平家政権から派遣された国司への不満が爆発、源頼朝挙兵の翌月には肥後で隆直を中心に、木原盛実、合志資奉、南郷惟安などと武装蜂起する。ただ、特に源氏に呼応したわけでもないようだ。
平清盛は追討使をやるも隆直が頑張ったようで平定できず。やがて豊後でも緒方惟栄が挙兵すると、国司という条件で隆直を懐柔しようとするも、頑固な隆直さんは妥協しないばかりか、大宰府焼亡の風評が京都に流れる始末。そして九州に縁があり(日向通良の乱の際に下向した平家貞の子)、かつ筑前守の経験がある平貞能を肥後守として隆直討伐に差し向け、凶作に兵糧攻めでようやく隆直をへこませて降伏させることに成功した。
しかしご存じの通りやがて平家は京都を追われ、安徳天皇を擁して大宰府に逃れるが、このとき隆直は今度は平家方として大宰府入りを阻止しようとした緒方惟栄と戦ったようである。節操がない、なんて言ってはいけません。
しかし「大津山の関(=南関)をあけて参らせんとて、肥後の国にうち越え、おのが城に引籠って、召せども召せども参らず」(『平家物語』)ともあり、定かではない。自分は引き籠もっておきながら、隆直は所領の安全のために嫡子菊池隆長、三男菊池秀直を派遣しており、二人とも戦死している。かわいそうだけど、一応義理を果たしたわけだ。
隆直の最後も二説ある。一つは単に戦後京都で源氏に斬られたというもの。もう一つは源義経が頼朝に追われて九州の緒方惟栄を頼ろうとした際、惟栄の出した条件が「隆直斬殺」だったため、それを承諾して六条河原で斬殺したという『平家物語』の記述である。義経め…。
惟栄は加えて肥後内の寺を焼き討ちしたなんてこともあり(菊鹿町相良寺)、彼は肥後では超絶不人気である。ともあれ、一連の争乱で菊池氏は多くの所領を失ったのでした。 |
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2.並び鷹の羽紋 |
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この隆直の乱以降(第8代菊池能隆(先祖)からとも)、菊池氏は正式に「並び鷹の羽紋」を使用するようになったらしい。
則隆が菊池川のほとりに居住して阿蘇の神の神託を得、夢の中に鷹の羽を幕紋に与えられたともいうが(『北肥戦記』)、それまでの「日足紋」が縁起が悪いというのもあったのだろう。ただ、その後の菊池氏を見ていると、あまり旗を変えた効果は現れていないような…?なお、日足紋は肥国(火の国)のシンボルである。
第10代菊池武房(高祖)が使用している様子が『蒙古襲来絵詞』できっちり盗撮されており、菊池氏の使用がもっとも古いとされる。 |
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3.承久の乱 |
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さてその第8代能隆の代には承久の乱が起こった。能隆は京都大番役を勤めていた都合で叔父二人、菊池家隆・菊池隆元を上京させており、この二人が後鳥羽上皇側として戦っている。幕府の圧政を跳ね返すチャンスとみたのだろうが、結果は周知の通り。またもや多くの所領を没収される羽目になったのでした。 |
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4.「ずずしくこそ見え候へ」 |
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第10代菊池武房の時、蒙古襲来という大事件が起こる。日本軍の総指揮は少弐経資(実質は景資か)。武房は赤星有隆、菊池康成、西郷隆政、城隆経、加恵隆時、本郷実照、本郷隆頼ら一族と赤坂という重要地帯の守備につき、祖原山の元軍と対峙した。そして230の騎兵で歩兵2000の元軍を撃破し、敵さんの首を鉈の先に掲げて誇らしげに行軍するというやんちゃをしたものの、元軍の進撃を見事に阻止したのだった。さすが武房!
肥後の竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』には、討ち取った蒙古兵の首を長刀に貫いて意気揚々と引き揚げてくる菊池勢の姿が描かれており(絵には描かれていないが)、季長は「ゆゆしくみへ(=勇ましく見え)」たため、「すずしくこそ見え候へ(=さわやかに見えますぞ)」と声をかけている。今で言えば「かっけぇ…」と声をかけたんでしょうね。 |
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5.弘安の役 |
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元軍が再度来襲するに間違いないと考え、幕府は博多湾に防塁(石築地)を築かせた。幕府からは「逆遠征するか、防塁造るか選べ」と言われたようで、そりゃ防塁選びますわね。
武房ら肥後が担当したのは生の松原地区だこの生の松原の防塁上で海を眺める武房ら菊池家臣団の姿が、やはり『蒙古襲来絵詞』に描かれている。「人々おほしといへとも、きくちの二郎たけふさ、文永の合戦になをあけしをもて」と、文永の役での武房の活躍を褒めちぎっているのだ!
ここで季長は、武房に「今から敵船に乗り込んで手柄を挙げるので証人になって欲しい」と依頼している。なんと答えたかは不明だが、おそらく気の良い武房は承認したと思いたい。家督争いに敗れていた季長がこの戦いに賭けていたのはもちろんだが、源平の争乱、承久の乱での失地を回復したいと、武房ら菊池一族も必死であったようだ。
しかし、元寇の恩賞が霜月騒動の論功行賞が加味された結果、安達泰盛や少弐景資と近かった菊池氏にはほとんど恩賞は与えられなかった。そしてさらなる元の侵攻に備えるという名目で北条一族が九州各地に配置されることになり、九州の武士たちの積もり積もった不満はやがて爆発するに至るのだ。 |