Y.今川貞世 |
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1.九州探題の迷走 |
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幕府は一族である斯波氏経を九州探題に任命したが、先に述べたように長者原の戦いでは敗北した。さらに氏経は大内弘世の力を借りたが、これが征政府と中国の厚東氏との関係を作り上げてしまう藪蛇になってしまい、菊池武勝と厚東氏によって弘世は馬が岳で撃退されてしまった。
幕府は後任として渋川義行を送り込んだが、九州に入ることすらも出来ず備後にとどまり、何の成果も上げられないまま5年で京都へと戻ってしまったのでした。
この間、将軍足利義詮の死去のタイミングを突いて親王は東上の軍を起こそうとしたが、制海権を握っていなかったために失敗に終わっている。残念…。 |
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2.今川貞世 |
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続いて九州探題に任命されたのが今川貞世(了俊)であった。このおっさんは慎重だった。菊池侮り難しとみると、一色くんや少弐くんからきっちり情報収集を行い、さらに九州への途上で九州から逃れてきた北朝方をがっしり吸収し、十分な兵力をそろえてから三方向から九州へと上陸したのでした。
まず豊前経由で豊後高崎山に子・今川義範を上陸させた。武光は子・武政を向かわせたが、早期解決を目論んで自ら出馬した。しかし義範も了俊の上陸までは耐えようと必死で、落城させるには至らなかったのだ。
武光不在と兵力の分散を衝いて門司から了俊が大軍を率いて上陸し、一気に赤坂まで到達した。大宰府を狙われた武光は筑前に引き返したが、さらに肥前から貞世の弟・今川仲秋が上陸してきた。これを食い止めようと武政を向かわせたが、肥前烏帽子岳で破れた武政を追った仲秋を筑前・筑後に導き込む結果になってしまったのでした。 |
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3.大宰府陥落 |
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高宮を占領された上に、三方面に敵の大軍を向かえることになった武光に対し、この了俊というおっさんはまだ慎重な姿勢を崩さなかった。薩摩の島津、日向の畠山に肥後を圧迫させた上に、豊後・中国から軍勢を補強した。
肥前守武安が筑後酒見城の仲秋を攻めたが破れ、武安を追撃した仲秋は貞世と合流、その勢いで大宰府総攻撃を開始した。まもなく有智山城は陥落、武光はついに大宰府を放棄、親王を奉じて高良山へと後退したのでした。この時かなり良くできた兄・武澄と、昔から一緒に無茶をしてきた義父・阿蘇惟澄は既に亡く、二人が生きていれば四方面作戦にも対応できたかもしれない…、と妄想せざるを得ない。
なお、高崎山城からの撤収以降の武光の記録は実はないらしく、決戦好きの武光が決戦を挑んでいないのはおかしいと、武光は大宰府陥落前に急死していたとの説もあり、私もこれノリです。 |
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Z.南北合体 |
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1.武光、武政の死去 |
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高良山へ入ってわずか3ヶ月後、武光が45歳で死去している。大宰府での負傷が元とも、すでに大宰府で戦死していたともいわれる。死後は第16代菊池武政が指揮を執ることになり、武安に肥前本告城を急襲させるなど挽回を図るが、高良山攻撃を遅らせる程度で旗色は良くなる気配を見せなかった。武政は南朝方の阿蘇惟武へ援軍をしきりに要請するが、そんな中33歳で死去してしまう。武光死後わずか1年半…。そしてわずか12歳の賀々丸が跡を継ぎ、第17代菊池武朝となったのでした。 |
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2.水島の戦い |
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若き惣領武朝は貞世相手にしばらく高良山を維持するも、北朝軍の充実ぶりをみて肥後へと撤退する。武朝に降伏勧告を拒絶(偉い!)された貞世は肥後へと侵入、武朝は水島(台城)にて迎え撃つことになった。
ここで貞世は九州御三家の島津、大友、少弐を招集する。島津氏久、大友親世は応じたが、少弐冬資は応じない。そこで貞世は氏久に頼んで冬資を参陣させたが、その冬資を貞世は殺しちゃった!
元々貞世のことをおもしろく思っていない上に、メンツをつぶされた氏久、疑心を抱いた親世からの協力を貞世は失うことになり、一族中心で戦った北朝軍は、水島で敗北してしまうことになる。さらに冬資殺害を機に少弐貞頼が南朝方に転じてしまい、九州でこのおっさんの犯した唯一の大きな過ちと言えるだろう。
事実、武朝は懐良親王の跡を継いだ良成親王と肥前進出に成功しており、仲秋の博多奪回も菊池武国(高瀬武国)に撃退され失敗に終わっている。優秀な一族が多いなぁ…。 |
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3.蜷打〜託麻原の戦い |
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貞世が戦力を整えた頃、調子に乗って肥前に進出した武朝の菊池・少弐連合軍と、大内・大友を主力とする今川軍が蜷打(千布)で激突し、大内義弘の活躍もあり今川軍が大勝を収める。一族の菊池武安、菊池武義らを失った上に、阿蘇惟武までが戦死してしまうという大敗で、以後肥前、筑前への出兵が不可能になるほどの大敗であった。武朝も後悔しただろうなぁ…。
菊池に迫った今川の大軍に対し、武朝は城砦群に籠もって抵抗した。そこで貞世は、兵力がものをいう平地におびき出すために、肥後南部へと進出した。肥後南部の信を失うことを恐れた武朝君は、危険を承知でこれを追い、託麻原で戦うこととなった。一族を率いて奮戦するも危機に陥った武朝を、親王の突撃が救い、さらに時間差で別の隊が切り込むという展開(『武朝申状』)で勝利を収めた。やるときはやるのが武朝でしょうか。 |
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4.菊池陥落 |
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ただ託麻原で勝利は収めはしたものの、戦局は好転しなかった。
貞世は板井原の要地に陣を構え、木野城、菊之城を陥落させる。そしてとうとう武朝の菊池城、親王の染土城も陥落し、両者は宇土に逃れ本営を構えた。
慎重なおっさん貞世は戦力を整えた上で宇土を攻撃、すると武朝は名和顕興を頼って八代古麓へ逃れ、南朝の主力は八代に集結した。争いはあったものの、そのまま南北合体へと至り、南朝軍存続の意義も消滅してしまったのでした。 |
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[.一族のその後 |
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1.武朝の動向 |
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九州平定の大功のあった貞世が探題職を更迭され、渋川満頼が任命された。その満頼と武朝・少弐貞頼の争いがしばらく続いているあたり、武朝は早々と菊池に復帰していたようだ。貞世も九州を治めるには菊池氏が必要だと感じたのでしょう。
大内、大友の家督争いに巻き込まれつつも探題と戦い、一族の赤星武続が肥前の渋川満頼を筑前へ敗走させるなどの活躍を見せている。やがて武朝が死去し、第18代菊池兼朝となる。 |
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2.幕府への協力 |
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兼朝時代の菊池氏は、とにかく反探題・反幕府として少弐貞頼の子・少弐満貞と共に戦い続けた。時にはやんちゃして箱崎宮を炎上させたほどの苛烈な戦いが続く中、菊池武忠(菊池武宗という説あり)、菊池武也が馬が岳城を落とし探題方の新田義高を自害に追い込んでいる。
しかしそれが第19代菊池持朝となると、あっさり方針転換、幕府へ協力的になる。兼朝は持朝との対立で失脚したとも言われるが(弟の菊池忠親の自害や菊池泰朝との争いなど)、15歳で家督を継いでいるあたり、兼朝が佐敷城に隠居したという説の方が有力ではないか。
ともあれ持朝は幕府に協力することにより、筑後守護職のゲットに成功したのでした。 |
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3.滅亡への序章 |
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その持朝が死去し、弱冠16歳で第20代菊池為邦が家督を継いだ。為邦は文教と貿易に力を注ぎ、京都にも名が届くほどの一定の成果を上げたが、残念ながら戦の方は今ひとつだったようだ。
幕府が筑後守護職の半分を大友政親に与えられたのをきっかけに大友氏と争うが、弟の菊池為安を失い筑後守護職を完全に失ってしまう。しかも同じく弟の菊池武邦に豊福城を奪われ(信憑性は薄いらしい)、子で後の第21代菊池重朝が奪還するという非常事態に至っている。この戦いの後、あっさり家督を重朝に譲ったとされる。
17歳で家督を継いだ重朝は、応仁の乱につけ込み筑後守護職奪回をはかろうとするが立ち回りに失敗し、何の見返りも得られないばかりか大きく菊池氏の面目を墜としてしまったのでした。 |
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4.宇土為光への誤解 |
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重朝は隈部忠直と孔子堂を建設し、「菊池万句」を開催するなど父と同様文教で成果を上げたが、やはり戦の方は芳しくなかった。相良氏と名和氏の八代を巡る争いに介入した結果、叔父の宇土為光を敵に回してしまったのである。
為光が積極的に菊池領を覗った形跡はないようだ。むしろ阿蘇惟歳の言い分を受け入れて宇土領の一部を阿蘇氏へ割譲するように、との重朝の無理難題を為光は呑むことが出来ず、宇土領に侵攻してきた重朝に応戦したのが赤熊の戦いだった(『菊池一族』)。
重朝は赤熊では勝利したものの、その後の馬門原の戦いで大敗し、為光は宇土に復帰したが、その後も目立った動きはなく家督簒奪の動きは見せていない。一方の重朝は「菊池重朝一家錯乱」(『南藤蔓綿録』)と呼ばれるほど、家臣統制力を失ってしまったのでした。
重朝の跡を継いだ第22代菊池能運(武運)は、一時期は豊福城、古麓城の奪回に成功する。すると調子に乗って隈部氏からの家中主導権奪回を狙い、「隈部退治」(『八代日記』)と称して菊池重安と筑後勢を率いて玉祥寺原で隈部氏と争った。しかし一族の菊池重政は隈部方に付く。結果、重安も戦死するなどの大敗し、島原へ逃れた。そして家中「老弱一味同心」(『五条文書』)で推戴され、宇土為光が家督を継いだのである。 |
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5.滅亡へ |
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相良氏や有馬氏の援助を受け為光を追い、島原から復帰した能運であったが、25歳の若さで急死してしまう。遺言により肥前家の第23代菊池政隆(先に戦死した重安の子)が家督を継ぐが、これが内部対立をもたらし、大友家につけ込む隙を与えてしまった。
反政隆勢力は阿蘇惟長に菊池家督継承を依頼し、惟長はこれを受け入れた。惟長は大友の推挙も得て肥後守を称し、菊池武経と名乗った。ここに政隆と武経の戦いが勃発し、大友氏の援助もあり武経が菊池に入城する。島原に逃れた政隆は再度肥後復帰を目論むが破れて大友氏に捕らえられ、最終的には自刃したという(享年9歳とも15歳とも)。
政隆を討った武経も、家臣団との折り合いが悪く、さらに大友からの圧力もあり家督を放りだして阿蘇へと帰還している。
その空位を争ったのが託麻武包(後の第24代菊池武包)、菊池基興、そして大友義国(後の菊池義武)だ。武包は武経が去った後に家督を継いだとされるが、菊池義武はまず菊池に入った後、鹿子木親員に迎えられて隈本城に入り、菊池氏を継承した。
一方の武包は島原に逃れ、再起の兵を挙げることなく大野城で没したとされる(情けなや…)。ここに菊池の血を引く最後の菊池氏は滅亡した。
その義武も大友義艦と対立し、最終的には大友義鎮に破れ自害。菊池家は完全に潰えたのでした。ちゃんちゃん。 |