菊池氏概略@ 菊池氏概略A 菊池氏概略B
V.博多合戦
1.元弘の変  後醍醐天皇の倒幕計画が露見して京都を逃れたとき、菊池氏は第12代菊池武時となっていた。近畿では楠木正成が挙兵するも、後醍醐天皇は隠岐に流される。それでも後醍醐天皇は護良親王を通じて幕府打倒を呼びかけ続け、再び楠木正成が挙兵し、天皇は名和氏に迎えられ伯耆へ入った。
2.博多合戦  九州でもっとも大きな行動を起こしたのが菊池武時と阿蘇惟直で、天皇大好きな彼らは鎮西探題の打倒を狙っていた。しかし鎮西探題北条英時にこの動きを察知されていたようで、九州の武士たちを博多に集合させた。
 到着したら「遅刻だから到着の記録に残してあげない!」と難癖をつけられてキレた武時は、やっぱりこの腐った探題府は倒さないといけないと決意、同じく幕府への不満を抱く
大友貞宗少弐貞経と探題府を襲撃しようと呼びかけた。
 しかし時期尚早とみた両者は武時に同調しないばかりか、探題府側に立って菊池・阿蘇軍を討つという行動に出た。卑劣…!
 菊池・阿蘇軍の攻撃は凄まじく、一時は北条英時に自害を思わせたほどであったらしいけど、少弐勢などの援軍もあり敗退。武時とともに子の
菊池頼隆、義弟菊池覚勝(寂正)も戦死してしまった。長男で後の第13代菊池武重は武時に「(今後も)天下のために戦う義務がある」と諭され帰国している(袖ヶ浦の別れ)。
 その後幕府の敗北が決定的になると、かつては探題側について武時をいじめた大友くんと少弐くんは、今度は笑顔で探題府を攻撃、北条英時を自害に追い込んだ。やっぱり卑劣…!
W.多々良浜の戦い
1.武重と武敏  幕府打倒が完成し、諸将が後醍醐天皇の元に集まった時のこと。楠木正成が「元弘の忠烈は労功の輩惟多しと雖も何れも身命を存する者也。独り勅諚に依って一命を墜せし者は武時入道也。忠厚尤も第一たる」と賞賛したとされ、武時の功によって武重は肥後国司、菊池武澄は肥前守、木野武茂は対馬守、菊池武敏は掃部助に任じられている。武時は報われたのでした。
 ただ武時の功で恩賞を多く受けた菊池氏とは対照的に、武士の多くは建武の新政により既得権益を侵害され、やがて
足利尊氏がこれらの武士をまとめ上げ後醍醐天皇と争うことになる。
 武重も親父と同じく天皇大好きだったようで、父の遺命に従い、後醍醐天皇のために上京したのでした。そして新田義貞に従い、箱根越えで
足利直義と交戦した。武重は先鋒として足利軍を押しまくったが大友貞載の寝返りで官軍は敗北、すると今度は殿軍として新田義貞を撤退させることに成功している(『太平記』)。箱根竹の下戦いでは松浦党の菊池為冬を失ったが(だれ?)、ここで「菊池千本槍」の伝承が生まれたのだ!。その後大渡の戦いでも存在感を示したが、菊池武村を失ってしまっている。
 武重不在時に九州の菊池軍を指揮したのが
イケイケの弟・菊池武敏だった。武敏は足利方の少弐軍と大宰府を争うが、足利方の託摩貞政三池貞元相良貞頼らの追撃に遭い菊池本城を失ってゲリラ戦を展開していた。しかし武敏は阿蘇惟直と共に大宰府を再攻撃、有智山城では少弐貞経を討ち取り、きっちり父の仇討ちに成功する。そして北畠顕家によって京都を追われた尊氏と多々良川を挟んで対峙することになったのでした。 
2.多々良浜の戦い  箱崎宮を背にした菊池軍と香椎宮を背にした足利軍の戦いは、北風を背にした足利軍に有利であったという。しかしイケイケ武敏率いる菊池軍の奮戦で足利直義が危機に陥り、尊氏も死を覚悟したという。直義は尊氏だけでも逃がそうと、尊氏に撤退を促す使者を送り自らは奮戦した。決死の覚悟の直義に足利軍が発奮した上に、松浦党の寝返りにあってしまい、ただでさえ連戦で疲労困憊の菊池軍は敗北してしまう。松浦党め…。
 武敏は筑後黒木城を経ながら何とか肥後に撤退できたものの、阿蘇惟直は弟・阿蘇惟成とともに肥前天山で、秋月隆道も大宰府で討ち死にしてしまった。
 勝った尊氏は九州の兵をまとめて東上する。兵庫で楠木正成が足利大軍相手に勇戦したが自刃した。この時も宮方として参戦していた武重は、正成に父を賞賛してもらった恩からか
菊池武吉を正成の元に派遣しており、武吉は正成らを見捨てるわけにも行かず、律儀に一緒に自刃している。
3.南北朝時代へ  一時講和が成立したものの、尊氏の擁立した京都の光明天皇、吉野の後醍醐天皇という南北朝時代が始まった。
 菊池武重が京を脱出して肥後に戻るまで、九州で指揮を執っていたのは依然としてイケイケ武敏であった。九州探題
一色範氏への援軍・仁木義長と争い勝利したが、その後は一色・仁木連合軍の総攻撃でまたも菊池から身を隠すことになったのでした。
 その後も今川助時
合志幸隆小代重峰らと争いを続け、粘り強く戦っていたところに朗報が!やっと良く出来た兄・武重が帰還したのでした。
 武重らと連携した
阿蘇惟澄は一色・少弐連合軍を上益城で撃破、そして武重・惟澄軍は自ら出陣してきた一色範氏軍を犬塚原で撃破し、範氏の弟・一色範行をあの世に送っている。
 さらに武重は合志幸隆の竹迫城を攻める間、これまた良くできた弟・
菊池武豊に筑後侵攻を命じる。すると武豊は豊福原で佐竹重義を破るなど大きな戦果を挙げ筑後を制圧、南朝方を大いに勇気づけたのでした。それは同時に北朝の少弐頼尚を引っ張り出すことにもなったのです。
 この後、新田義貞は戦死、後醍醐天皇も崩御など南朝に暗い話題ばかりだったが、尊氏が送り込んだ
甲斐重村(家督争いでブチ切れて時の当主時隆を殺した武本の子孫)と戦い、あっさり撃退している。
X.菊池武光
1.菊池武士  南朝の動きを気にした少弐頼尚が九州へ赴き、ここから頼尚との長い戦いが始まる。その最中、武重の死によって第14代菊池武士が家督を継いだ。
 この間、後醍醐天皇の王子
懐良親王が征西将軍宮としてようやく九州に上陸して谷山隆信に迎えられている。南朝としては絶好のチャンス!
 しかし、肝心の時期に菊池武士を補佐すべきイケイケ武敏が死去、さらに良くできた弟・武豊は筑後から手が離せない。この時、兄貴の木野武茂が補佐役となったが、大友氏泰の侵攻を許し、菊池本城が危機に陥ってしまう。追いつめられた菊池一族の内部では、『菊池武重起請文』に照らし合わされ菊池武士に隠退勧告が出たようで、生真面目な武士は「器用の仁」に惣領を譲ることを宣言したのでした。
2.菊池武光  武士は、末弟・乙阿迦丸を第一候補、乙阿迦丸がふさわしくない場合は兄の菊池武隆をと考えていたようである。
 ここでしゃしゃり出てきたのが
豊田十郎(武光)である。阿蘇惟澄と共に益城方面で武家方と戦い、大きな戦果を挙げていた。頼みの武豊不在の間に合志幸隆によって奪われた菊池本城も奪回した。ただ母の身分が低いと言うこともあり、彼は家督候補には挙げられてはいなかった。
 どうしても家督を継ぎたい十郎は考えた。実績は申し分ないのに、どうも一族は自分を推すつもりはないらしい。そこで彼は力技に出た。
「先に肥後守もらっちゃえ!」作戦だ。家督の継承には前代の「譲り状」が必要だが、肥後守は朝廷からもらえる。彼は吉野に使者をやって、勅約の綸旨をゲットするのに成功したのでした。
 これは菊池一族も盲点だったようで、まんまと出し抜かれてしまったのでした。というのも、どう考えてもただの一族より肥後守が格上。なし崩し的に武光は十五代当主の座をゲットしたのでした。 
 ただ、そのしわ寄せはかなり良く出来た
兄・武澄に行くことになった。軍事面でも武光の片腕となって活躍した彼だったが、一族から武光家督継承の承認を取り付けるために奔走したり、武光と大智の仲をとりもつなど、無茶する弟のおかげで結構苦労している。
3.懐良親王と足利直冬  谷山隆信に迎えられ鹿児島に上陸した懐良親王は、海路で八代、宇土を経て、陸路で御船経由で念願の菊池入りを果たした。
 本州では楠木正行が戦死するなど、宮方は武家方に破れていたが、破れた南朝方は九州での宮方の健在を聞くと九州に上陸し、加勢するようになる。それをみた一色範氏が菊池氏を放っておくはずがないのだが、かわいそうな
足利直冬の九州上陸によって大きく足並みを乱されることになる。直冬を迎えたのが九州探題に不満を覚えていた少弐頼尚であり、宮方、武家方とは独立した「佐殿方」勢力を形成したのでした。
 するとびびった探題一色範氏は菊池に降り、佐殿方に対抗することになった。やがて直義の死で後ろ盾をなくしちゃった直冬が九州を去ると、今度は敵わないと思った少弐頼尚が菊池に降伏。すると九州探題の地位を捨てきれない一色範氏が武家方の指揮を執り出すという始末でした。
 しかしこの混乱で大きな利を得たのが宮方であり、武光は薩摩以外の九州をほぼ制圧することに成功し、かなり良くできた兄・武澄によって一色範氏は長門へと逃げ出したのでした。しかしその後、武澄が病死してしまう。痛い!
4.筑後川の戦い  焦った幕府は大友氏時に菊池討伐を命令。大友に主導権を握られる事を恐れた少弐頼尚は、氏時と連携し兵を集め出す。これを知った武光も4万の軍勢を集め北上、頼尚6万と筑後川を挟んで対峙する。武光は後の第16代菊池武政菊池武信菊池武明、赤星武貫など、一族の主要メンバーを率いての参陣だった。
 渡河して攻撃を挑もうとする宮方に対し、武家方は後退して沼地に宮方をおびき寄せようとする。そのまま半月ほどにらみ合いが続いたが、武政の夜襲が結果オーライで成功、さらに
武光、武信、懐良親王らの総攻撃により、頼尚の子・少弐直資は戦死、大宰府まで撤退した。
 戦いは宮方の勝利に終わったものの、
武明は戦死、武光も親王も負傷するなど損害も大きく、一度菊池に帰還した。大宰府占領まではまだ二年待たねばならなかったのでした。
5.大宰府占領  さてかなり良くできた武澄の子、菊池武安は、菊池良武らを率いて肥前で掃討作戦を展開、少弐頼尚はなお大宰府で抵抗を続けていた。しかし子・少弐頼澄の裏切りにあい、とうとう大宰府を放棄、懐良親王は大宰府入りを果たす。武光は父・武時の念願をようやく果たしたのでした!
 菊池軍にあって大きな功を挙げたのが
城武顕だ。某小説を読む限りでは槍片手に敵陣に突っ込んでいく猪武者にしか見えない彼だが、実際は知謀の将だったようだ。宝満城落城、そして長者原の戦いにおいては菊池武義を救出した上に、少弐頼資を討ち取っている。
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