菊池本城
肥後隈府城
(菊池神社)

場所:菊池市隈府
 我らが菊池一族の本拠だ。菊池城とも守山城とも。写真上は隈府城惣構。奥に見える山が主郭あたりだ。左下あたりに見える西覚寺あたりが西端とされ、現地に行くと土塁っぽいものが残っているように見えなくもない。

 元々は「隈部」だった地名が戦国時代に「隈府(くまふ)」と改名され、さらに「隈本」と区別するために「わいふ」と読まれるようになったらしい。ということで、菊池氏の時代は「くまべじょう」だったのでしょう。

 もともとの本拠は菊之城(深川城)だったが、後にここへと移した。それは武光からという説、武政からという説があったり、いや武重の時からだという説もあってよくわからない。合志氏に奪われたのは深川城と呼ばれるので、少なくとも武士の時までは違うのだろう。ともあれ懐良親王たちは裏の雲上宮にいたらしいから、少なくとも詰城としては存在していたのだろう。

 戦国期に島津によって落ちたときに、菊池伝来の品々は略奪されたらしい。島津、返せよ!

 ともあれ、結構広大な敷地なので、菊池神社と併せて説明していきたい。
菊池頼隆逆修碑
 「菊池城本丸跡」の碑は、菊池神社拝殿の左手側、宝物館右手側の少し小高い丘の上にある。二の丸は月見殿跡、三の丸は金比羅神社あたりだ。

 さて、この石碑の左にご注目。二段重ねの石塔がある。ついつい見落としてしまいがちだが(かく言う私も、最初は見落とした)、これは博多合戦で父・菊池武時と共に戦死した、三男・菊池頼隆の逆修碑とのこと。逆修碑とは、生前に自ら墓石に名を刻むことらしい。彼は探題襲撃の前に死を覚悟していたのでしょうね。
 目を懲らして見ると、

「 元弘三年 葵酉三月十三日
   藤原頼隆
   生年廿一
   打死辰刻」

 とある。
 ……、これってまさしく探題館討ち入りの日だけど、生前に刻んだのか?逆修は年配者が若い人を弔う場合も指すらしいから、そっちなのだろうか。
菊池武光像
 西の市民広場に立つ菊池武光像は写真以上に圧巻だ、まじやべぇ。これは確かに菊池市が言うとおり「日本一の騎馬像」だ。これは自慢したくなる。ふるさと創生で作られたにしては立派すぎだ。みっくんについてはこちらの手抜き紹介ページなんていかがでしょうか。
菊池武時像
 後醍醐天皇の綸旨を受けて、探題北条英時の館に討ち入ったのがこの12代菊池武時様だ。少弐・大友の裏切りに遭い、子・頼隆、隆舜、義弟・寂正(覚勝)らと共に戦死している。墓は七隈の菊池神社のもの(胴塚)とされ、六本松の菊池霊社に首塚、日輪寺に供養塔がある。
 武光と比べスケールは小さいものの、それでも神社境内に立派な騎馬像が立っている。横には千本槍を懐にシドニー港に潜航突撃したという軍人さんの像もある。
菊池神社
 主祭神は12代武時、13代武重、15代武光。
 他に当主からは14代武士、16代武政、17代武朝。
 武房の弟・赤星有隆、武時の義弟覚勝(寂正)、武時の叔父・武村。
 武時の子では頼隆、隆舜、武敏、武澄、武吉、武義。
 他に武澄の子・武安。さらに筑後川で戦死した面々である武隆の子・武明、赤星有隆の孫・赤星武貫、宇都宮隆房など。結構詰め込んでいるなぁ。

 助さんこと、佐々宗淳も訪れたことがある。

 なお、菊池神社宝物館入り口にぽつんと奇妙な岩が転がっているのにはお気づきだろうか。これは菊池公の馬乗石と呼ばれ、出陣前の乗馬の際に使用したという、もし本当なら非常に由緒のあるお岩様なのである。
 二転三転してこの場所に落ち着いたのだが、説明板も何もないのでお見落としのなきようご注意を。ついでだから「菊池公」になったつもりで上に乗ってみましょう。
城山神社
 菊池神社の摂社ということだ。
 祭神は元寇で多大な功を挙げた10代武房様だ。これはわかる。
 しかしもう一人がなんと菊池氏を衰退させた21代重朝さんだ。孔子堂建設や万句開催など文教に力を注いだのが評価されたっぽいが、なんだかなぁ。
雲上宮
 本丸から一度北へ山を降り、さらに登った所にある。
 ここは懐良親王や良成親王の御在所となっていたとのことで、「征西将軍宮」の石碑が立つ。内裏尾と呼ばれていたそうな。有事にはここも城として機能していたようだ。

 麓には「親王の出水さん」という看板があり、ここの湧き水を親王が生活用水として使っていたと説明しているが、かなり汚いぞ。昔はキレイだったのかな。