| 1.誕生〜家督 強奪継承まででた!ついにでた!よっ、南北朝時代の真の主人公!は?尊氏?正成?そんな人もいたっけね。
 親父はもちろん第12代菊池武時、母は赤星有隆の女か、恵良氏の女。十郎というぐらいだからおそらく十男。
 博多合戦には幼いながらも帯同した。少弐・大友めの裏切りで負けを覚悟した武時は、武光の兄・武重らを本拠に帰還させたが、武光は聖福寺の大方元恢和尚に預けた。分散させて保険をかけたのだろう(武重と別ルートで帰った武重の子は、捕捉され殺害されている)。後に武光は元恢和尚を菊池に招き、正観寺を開いている。
 武重の死後は、弟・武士が跡を継いだ。武光は「母親の身分が低い」ということで飛ばされた(武士は2コ上との説もある)。「赤星有隆女」は武重の母でもあるっぽいが(諸説あり)、長男であるかの違いだろうか。なお、武士の母は大納言宣房女らしい(本当だとしても義母だろう)。
 嫁に恵良惟澄の娘を向かえ、豊田庄地頭職としてくさらずこのパワフルな義父とやんちゃをしまくる。菊池本城が合志幸隆に奪われた際は、義父と供に奪回する。なお、6日間の激戦で奪回したという説と、まず外城を落とし、翌年本城を奪還したという説とがある。
 武光が家督を継いだのはこれがきっかけとされるが、どうやらすんなり武士から譲ってもらったというより、かなり強引であったようだ。というのも、そもそも武士は「器用の仁」に家督を譲ると宣言し第二候補まで挙げていたが、武光はその候補にすら入っていなかった。当然、一族の多くは納得していなかったようで、武光は直接朝廷に掛け合って肥後守をゲットして優位に立つという力技に出ている。その陰には、一族を説得して回った兄・武澄の苦労があったのを忘れてはならない。
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            | 2.九州制圧まで 何とか一族をまとめた武光は、懐良親王を
 口実に迎えて宮方の勢力拡大に奔走する。九州に逃れてきた足利直冬のおかげで九州三国鼎立というラッキーもあり、一色範氏vs少弐頼尚(直冬)の対立に乗じて勢力を広げ、溝口城を落とし筑後に進出する。探題一色範氏は菊池に降り、直冬方に対抗することになった。やがて義父・足利直義の死で後ろ盾をなくした直冬が九州を去ると、今度は少弐頼尚が降伏。一方で、邪魔者がいなくなったと一色範氏が北朝軍の指揮を執り出すようになる。
 少弐頼尚が危機に陥ると、針摺原で一色軍を撃破、さらに兄・武澄が肥前〜豊後〜豊前に一色、大友勢を撃破しまくり、一色範氏を九州から追い出すことに成功する。
 武澄の病死という大痛手もあったが、武光は日向に進出すると畠山義顕を撃破、島津も恭順し、ここに武光は九州を事実上制圧することに成功した。
 
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            | 3.太宰府制圧〜死去 高崎山にて反旗を翻した大友氏時の攻撃に向かうと、ここぞとばかりに少弐頼尚が反旗を翻す。帰途では阿蘇惟村の妨害を受ける(小国九塞)がこれを一蹴する。
 やがて武光は高良山に陣を張り、筑後川をはさんで少弐・大友勢と対峙する。沼地におびき寄せて叩こうとして後退した少弐勢に対し、武光は渡河を敢行、そして子・武政の奇襲部隊が敵に発見されたのをきっかけに戦闘が勃発した(諸説あり)。この大原合戦(筑後川の戦い)で勝利する。しかし損害も大きく、大宰府より前に肥前を制圧し基盤を固め、大宰府の占領は翌々年まで待たねばならなかった。
 再起した斯波氏経・少弐勢を長者原で撃破し、再度九州を制圧した武光は、東上計画を実施する。しかし海を渡ることができず失敗、さらに新たな探題として今川貞世が派遣される。
 とにかく慎重だった貞世は途上で九州を逃れた北朝勢力から兵力と情報を収集し、満を持して大軍を率いて三方向から上陸した。まず高崎山に子・今川義範を上陸させ武光を誘き出し、その隙に肥前、下関と用意周到に。武光はあわてて高崎山の包囲を解いて大宰府に戻るが、さらに貞世の調略で薩摩日向を含めた四方面から敵を引き受けることになった。
 肥前・筑後方面の武澄、薩摩・日向方面の惟澄が既にこの世を去っていたのも大きかった。結局は兵力差に抗しきれず高良山へ後退し、よくわかんないけどそこで死去したとされる。しかし高崎山(※高良山ではない)の包囲を解いた後の武光の記録はなく、川添昭二、長沼賢海の両氏などは「あの決戦好きのイケイケドンドン武光さんが決戦をしなかったのはおかしい」ということで、実は大宰府にて既に武光は死去していたという。墓は自らが開いた正観寺。
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            | 主要みっくん関連史跡 | 
          
            | ○お寺 ・正観寺
 みっくんが博多合戦でかくまってくれた大方元恢を招いて建立した寺。法名聖厳。武澄、武政、武国の墓もある。
 ・聖福寺
 みっくんが匿われたお寺。
 ・大琳寺
 菊池五山を定めたとき、それぞれの中央にあたる地に建立された。
 ・東福寺、西福寺、南福寺、北福寺
 みっくんが定めた菊池五山。
 ・長福寺
 みっくん創建という。
 ・大慈寺
 大隅でみっくんが立ち寄った楡井頼仲の菩提寺。
 ○神社
 ・小木阿蘇神社 ・江田熊野宮 ・清滝神社
 みっくんが勧請したといわれる。
 ・菊池神社
 ○お城
 ・菊池城
 谷山に上陸した懐良親王のために、みっくんが築いたと言うが本当だろうか。
 ・大善寺城
 しげちーが攻め落としたお城で、若いみっくんが入った。
 ・苅田松山城
 しげちーやみっくんが攻め寄せたというお城。
 ・高崎山城
 みっくんが落とせなかった、かた〜いお城。
 ・毘沙門嶽城
 筑後川の戦いで一時本陣となったり、大宰府陥落後の征西府となったりした要衝。
 ・杉城
 これもたぶん大宰府陥落後の征西府となった要衝。
 ・小倉山城
 みっくんがなぜか籠城したお城。
 ・隈府城
 現・菊池神社。みっくんが築いたとも言われる。
 ・菊之城
 みっくんが奪還したお城。
 ・穆佐城 ・三股院高城
 日向遠征でみっくんが落としたお城。
 ○戦い
 ・針摺原の戦い
 少弐頼尚を助けて一色を破った。
 ・千町川原の戦い
 わざわざ日向に出向いて畠山を撃破。
 ・筑後川の戦い
 といっても、戦いは筑後川を渡って行われたんだけどね。
 ・長者原の戦い
 菊池武義を救援し、城武顕の活躍もあり大宰府を狙った斯波・少弐軍を撃破。
 
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            | みっくんエピソード | 
          
            | ○地下の宝物 横井小楠が如意輪寺に「菊池武光画像」を送ったが、使者が誤って寺の奉公人に渡してしまったため、「地下(百姓)の宝物」になってしまったらしい。
 ○ぎんぷくりん
 1360年、3000余騎で合志定実を破り、「鞍岳はぎんぷくりんか今朝の雪、梨子地まだらに見ゆる山形」と歌ったという。『菊池風土記』は「武光にしてはひどく下品」として否定し、加藤清正家臣の桜井素丹のものだと断定している。
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            | みっくん写真館 | 
          
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