菊池氏概略@
菊池氏概略A 歴代当主 一族の人々 関係した人たち お城やお墓たち 菊池まっぷ 家系図(準備中)
菊池氏概略B
   

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雲上宮
八代宮
顕孝寺
将軍神社
宮ノ陣神社
偏万寺
千光寺
大円寺
五万騎塚
○妙見城
陵墓
大中臣神社
将軍木
○託麻原の戦い
 武朝がまず今川軍相手に突撃をかまし、危なくなったときにさらに良成親王が突撃をかまして、「運を天に任せて」勝利したとか。古戦場の碑や戦死者を弔う「八万千部の碑」がある。そんなに大人数だっけ?
○八代宮
○宮ノ陣神社
○染土城
○雲上宮
大仙公園
あ行
多々良浜の戦い
 足利尊氏を迎え撃つが、逆風と松浦党の裏切りにあい敗北。肥前天山で戦死。
多々良浜の戦い
 足利尊氏を迎え撃つが、逆風と松浦党の裏切りにあい敗北。肥前天山で戦死。
酒見城
 菊池武安の攻撃を受けたが撃退し、そのまま肥後へ進撃している。
 平治の乱後、流されて山鹿に定住、隈部氏の祖となる。菊池氏と婚姻関係を結び縁戚となる。
 懐良親王に従う。筑後川の戦いでは叔父・貞邦と戦死。子の久憲は父・貞久と共に戦い続け、後に蒲池氏を継いだ。
 懐良親王に従う。筑後川の戦いでは甥・懐久と戦死。
 懐良親王に従う。筑後川の戦いでは子・懐久と弟・貞邦を失う。
 北朝方の城井宇都宮氏の出だが、彼は懐良親王に従う。筑後川の戦いでは先陣中央の菊池武明軍に属し奮戦、少弐直資、少弐忠資、松浦吉種、佐志将監らを討ち取る。その後は危機に陥った懐良親王を救い出したが、自身は戦死する。

木葉城
 隆房の本拠。少弐頼尚、足利直冬の攻撃を受けているが、武重とともに撃退してる。
菊池神社
 筑後川の戦いでの奮戦が評価されたのか、菊池一族以外では珍しくここの祭神になっている。
宇都宮神社
 もとは春日神社だったが、筑後川で戦死するとここに祀られた。後に城井朝房も合祀されている。
 懐久の子。父の死後は祖父・貞久と共に戦う。後に蒲池武久の娘と結婚し、後蒲池氏の祖となる。
 つまり、戦国の蒲池鑑盛、鎮漣はもちろん、松田聖子の祖先なのだ、まいったか!

○蒲池城
 城井宇都宮氏当主。北朝方として筑後川の戦いに参加する。敗北した結果、著しく力を落とすことになった。
泉蔵寺
○洞春寺
 多々良浜から逃れてきた阿蘇惟澄を大木城にむかえる。その縁もあって、惟澄は早鷹宮(阿蘇神社)を大木城の南に分霊した。

大木城
 多々良浜から逃亡中の恵良惟澄を世話した。
早鷹宮
 世話になった縁で惟澄が阿蘇神社を分霊。
 
 立花氏の祖で、立花城を築城した。
 竹ノ下の戦いで足利方に寝返り、新田義貞を負けに追いやった張本人。喜んだ尊氏はこやつの弟・氏泰を養子にしていやがる。
 しかしまぁ、後の宗茂と血はつながっていないが、こんなのが立花氏の祖なのか…。
 豊後で反平家の兵を挙げる。平家に敗れ平家方となった菊池隆直と大宰府で戦う。源頼朝と不仲になった源義経からの援助依頼を受け入れる見返りに「じゃあ隆直殺してよ!」とのたまい、実行される。豊後岡城は義経を迎え入れるために築いたとも。
 他にも肥後の寺を数多く焼き討ちしたとかで、熊本での評判はすこぶる悪い(らしい)。

○岡城
相良寺
か行
 1336年、武敏と共に多々良浜で足利尊氏と戦い戦死する。子がいなかったが、娘が宇都宮久憲が蒲池氏を継ぎ、「後蒲池」となる。

多々良浜の戦い
 足利尊氏を迎え撃つが、逆風と松浦党の裏切りにあい敗北。
○蒲池城
忠直観音堂
 墓所。迫間川のほとりに立つ。
光九寺
 忠直が母のために建てた寺。かつて自分の墓もここにあった。
湊川神社
 菊池武吉祭神で、武吉の墓もある。おまけで正成も。
 多々良浜に参陣するも敗れ、肥後へ退却する菊池武敏を猫尾城に迎えて籠城するも、城は陥落。

猫尾城
 別名黒木城。戦国期には戸次道雪、高橋紹運という鬼コンビに攻撃され落城している。
五条頼元 ○修験者
 修験者たちの協力を取り付け、懐良親王の菊池入りに貢献した。
○鉱山
 修験者が発見した鉱山により、南朝の勢力維持に貢献した。
さ行
長者原の戦い
 武光の留守を狙い、子・松王丸を総大将とし、少弐軍と共に大宰府を攻めた。留守軍の菊池武義に勝利寸前であったが、武光の援軍・城武顕の前に敗北。
綾部城
 綾部神社の背後の山。そこまで大きくない。
 蒙古襲来では竹崎季長を配下に組み込み、武房らと共に戦う。景資の「待って戦え」という命令に「それだと手柄立てられないじゃん!」とだだをこねた季長を快く送り出してくれた結果、季長は勝利して悠々と引き揚げてくる武房軍に出会えたのでした。
 そんな彼も武房同様霜月騒動に巻き込まれ、兄経資と岩門城に戦い自刃したのでした。いいヤツだったのに…。


○岩門城
○墓
 武時からの探題府襲撃を時期尚早と却下し、その上攻め込んできた武時を探題側として攻撃した御仁。その70日後には手のひらを返して探題を死に追いやったのでした。
 後に有智山城にて武敏を迎え撃つも、敗れて首を挙げられてしまう。子・頼尚が多々良浜で勝利するが、尊氏は頼尚ではなく新しい探題をおいていったため、彼の死はあまり報われなかったのでした。けど同情しない!

有智山城

長者原の戦い
 武光の留守を狙い、斯波軍と共に大宰府を攻めた。留守軍の菊池武義に勝利寸前であったが、武光の援軍・城武顕の前に敗北。
多々良浜の戦い
 足利尊氏を迎え入れ、菊池武敏らと戦う。天候と松浦党の裏切りもあり勝利。
山隈城
○東町公園
○将棋盤
 探題攻めの際、不穏な気配を察した探題方の長岡六郎に襲撃されるが、
そばにあった将棋盤で刀を受け止めて組み付いたらしい。将棋盤の有効利用法!
た行
 兄弟との家督争いに敗れしょんぼりしている所に、元寇という千載一遇のチャンスが!何とか功を挙げようと奮闘し、先駆け、敵船への切り込みなどを果たすが認められず、わざわざ鎌倉まで直訴に行き安達泰盛から「こういうやつこそ役に立つ」とようやく認められる。
 彼が残した『
蒙古襲来絵詞』には菊池一族の奮戦や、石築地上で余裕をかます菊池一族の姿が描かれおり、当時の菊池家臣団を知る上でも重要な資料となっているのだ。でかした!

○竹崎城
石築地
○菊池武房
○少弐直資
○安達泰盛
○塔福寺
お墓

谷山城
 懐良親王を迎えたお城。
な行
 義基の子。菊池方として戦うが、馬ヶ岳で大内義弘に敗れた後は大内氏(探題方)に従った。

馬ヶ岳城
 九州にやってきた新田一族の居城。後に秀吉の宿舎となったり、黒田氏の居城となったりしている。
 義氏の子。駅館川で菊池武忠に敗れ、馬ヶ岳城は菊池武也に落とされる。三男を残して一族自害したという。

馬ヶ岳城
 九州にやってきた新田一族の居城。後に秀吉の宿舎となったり、黒田氏の居城となったりしている。
 中央で敗れた南朝方の多くが九州に逃れてきたことはよく知られているが、義基もその一人であるとされ、馬ヶ岳城に入ったようだ。筑後川の戦いにも第三陣として参加したようで、馬ヶ岳には彼の表忠碑がたっている。
 なお、妹は懐良親王とデキていたようで、この息子が義基の養子となり、貫氏の祖・宗景となっている。

馬ヶ岳城
 九州にやってきた新田一族の居城。後に秀吉の宿舎となったり、黒田氏の居城となったりしている。
は行
 多々良浜の戦いで北朝方として奮戦、菊池方の頸54を挙げ、高師泰に軍功が報告される。しかし親類若党の戦死・戦傷100余人と、損害も大きかった。
 系図の重頼とされ、戸次鑑連は兄・時親の子孫にあたる。
ま行
 菊池氏と共に行動し、多々良浜で敗れた菊池武敏と共に三原城に籠城している。

三原城
 多々良浜敗北後、菊池武敏は三原朝種とともにまずここに籠城した。その後、仁木義長の追撃を受け猫尾城(黒木城)に逃れる。