菊池氏概略@
菊池氏概略A 歴代当主 一族の人々 関係した人たち お城やお墓たち 菊池まっぷ 家系図(準備中)
菊池氏概略B
   
 
(997-1064)
 母は太政大臣藤原為光の五の君。
 
大宰権帥藤原隆家の片腕で、刀伊撃退の中心人物。対馬守に任じられるなど、結構な人物だったようだ。
 
『源氏物語』の「玉鬘」で彼女にしつこく迫る「大夫の監」の姿が描かれている、どうやら彼のことらしい。ちょっと恥ずかしいぞ。
 則隆の父ということになっているが、政則は中央出身の下級貴族で、後代になって政則を菊池一族の系譜に取り込み、さらに藤原隆家に系譜をつないだ、という説もある。
初代
(1029-1101)
 武朝曰く「太祖」。母は内大臣伊周の女。正五位上、大夫将監、大宰少監。
 
藤原隆家第一の郎党で、父と同じく刀伊来寇を防ぐなど覚えもよかったようだ。
 なのに藤原定任暗殺に関与してしまったために(手を下したのは息子だが)、1070年
大宰府を脱出して菊池へ(太宰府天満宮赤星荘荘官としてとも言われるが)。そして深川に館を構え、菊池姓を名乗ったようだ。もともと菊池出身という説も強いようだが。
 正直もったいない気がするが、菊池の名が今でも残っているあたり、怪我の功名なんだろうか。


※関係する神社は多すぎるので、途中からここに載せるのはあきらめました…。それでも見たい人は関連史跡には掲載していますので根気強く探してくださいませ。
菊之城
 菊池氏最初の本城。たぶん彼が築いたのではないか。
春日寺
 則隆が勧請したお寺。
春日神社
 則隆が勧請した神社。
四宮神社
 則隆が再興。後に経隆が土地を寄進している。
羽根八幡宮
 則隆が建立した神社。
田口天満宮
 同上。
円通寺
 菊池市旭志。山城から勅許を得て移した。
玉名大神宮
 玉依姫伝説の玉依姫は、則隆の子という説があるらしい。でもってここの東末社の祭神となっている。
お墓
 則隆のお墓は菊の城付近にある。場所を地元の人に尋ねても「?」だった。郷土のヒーローの祖なのに、それはいかんぞ。
○かしまし!
 かつて菊の池ではカエルの鳴き声がそれはうるさかったらしいが、
則隆公が「じゃかあしい!」と叱ったら、その後鳴くことがなくなったという。
2代
(1053-1105)
 母は葉室親通の女。従四位下。妻は式部少輔則宗の女。
 七城町に加恵諏訪宮や加恵八幡宮を建てる。
 刀伊の襲撃を撃退した(『九州治乱記』、志岐氏版『武朝申状』)、ということだが、これは父と祖父の功績を後世になって加えられたというのが定説らしい。
 西郷、小島を除く一族の祖となっていることから、とにかく
彼を祀っている神社が多いのが特徴。

出田若宮神社
 川沿いの田んぼの中にひっそり立つ。
ここを経隆墓所とする資料があるが、墓碑らしきものは見あたらず。
清水若宮神社
 川沿いにひっそりと立つ。
赤星菅原神社
 これまた川から近い田園地帯にひっそりと立つ。
天神平今宮神社
 経隆が祭神ということで、助けを借りながら一生懸命探し出したが…。
四宮神社
 則隆が再興した神社で、後に経隆が土地を寄進している。
玉名大神宮
 親父と共にここの東末社の祭神となっている。
須賀神社
 経隆が建てた加恵諏訪宮と加恵八幡宮がドッキングしている。
3代
(1073-1123)
 母は式部少輔の女。妻は西郷政隆の女。
 筑前へ進出。四男経遠は京都で武者所となる。
 正直、他のことはよくわからない…。


玉名大神宮
 ここの西末社の祭神となっている。
4代
(1096-1145)
 母は西郷隆政の女。妻は大納言宣家の女。
 1109年、鳥羽院の武者所として京都へ。
 菊池市雪野に八幡宮を建てたというが、よくわからない…。

玉名大神宮
 ここの西末社の祭神となっている。
雪野八幡宮
 雪野地区の一番良いところにどーんとある。そこそこ大きい。
○山鹿秀遠
 山鹿城主で壇ノ浦で活躍した人物だが、経宗の弟・四郎経遠の子だという。
5代
(1111-1186)
 母は大納言宣家の女。従四位下、肥前守。妻は左中将頼永の女。
 菊鹿町に八幡宮を建てる。
 父の跡を継ぎ、鳥羽院の武者所になったというが、よくわからない…。わかっていることと言えば、肥前杵島郡長島庄の荘官職を持っていて、でもってその氏神潮見大明神の笠懸の神事に奉仕して、
落馬して死去したことぐらいだ。せっかくの長寿だったのになんという最後…。
 鳥羽天皇からもらって並び鷹の羽紋に変えたのは彼という説もある。

潮見神社
 落馬しちゃった場所。墓もあるが、非常にわかりづらいので付近の人に素直に聞きましょう。
内田八幡宮
 経直が勧請造営。
玉名大神宮
 ここの西末社の祭神となっている。
6代
(1146-1188)
 母は左中将頼永の女。従五位下、肥後守。妻は赤星経俊の女。
 武朝曰く「
曩祖」。かっこよく反平家の挙兵して大宰府を焼いちゃうなどやんちゃしたけど、兵糧攻めにあい敗北。そして(安徳天皇のためと称して?)平家に付いたはいいが、今度は壇ノ浦で源氏に敗北。自身は南関に引き持っていたらしいけど、息子数人を亡くしちゃっています。
 隆直の死には諸説あり、興味深いものとしては
@「こいつ、裏切り者だよ!」とキレた緒方惟栄が「隆直殺したらあんたに協力するよ」源義経にせっついたため、京都八条(六条とも)河原で斬殺されてしまった、とか、A義経が京都を逃れるときに隆直に協力要請したが拒否したため、弁慶らに攻められて六条河原で討たれた、とか。
 縁起が悪いと、
家紋を日足紋から並び鷹の羽紋へ変更したのは彼だとか。たしかに変えた方がよかったかもね。

○並び鷹の羽紋
 阿蘇に参詣した際、神酒を頂く土器の上に鷹の羽が落ちてきたのをきっかけに、鷹の羽に改めたという。そのとき詠んだのが「あさくともふかくったのめや菊池川 阿蘇の煙りのたえぬかぎりは」であるとか。
○一ノ谷の戦い
 一ノ谷では一の木戸を守備したというがよくわからない。
○大津山の関
 壇ノ浦には子供達を向かわせ、自分は大津山の関(南関)に引き籠もっていたらしい(『平家物語』『源平盛衰記』)。やはり大津山城あたりにいたんだろうか。
正蓮寺
 菩提寺だったという。
玉名大神宮
 ここの西末社の祭神となっている。
7代
(1167-1122)
 母は赤星経俊の女。従五位下。妻は中納言平基親。
 アニキが壇ノ浦で死んだため、ラッキーで家督が回ってくる。
 鹿本町に米島・高橋八幡宮を建て、菊鹿町に宇佐八幡宮、菊池市に産神社を建てる他、1185年武者所となる。まぁ、例によって他はよくわからないということです。

神尾城
 十八外城の一つ。どうやらここが隆定の墓所らしいという資料を見つけたので再訪したが、どれかはよくわからなかった…。
お墓
 神尾城が墓と思っていたら、そこから西にありました。
玉名大神宮
 ここの東末社の祭神となっている。
高橋八幡宮
 隆定建立。なかなか立派。
米島八幡宮
 隆定建立。
産神社
 隆定建立。風情のあるところにある。
  菊池隆継
(1187-1204)
 母中納言平基親。妻は合志直方の女、大友光能の女。
 能隆をもうけるが、父より先に死去。しかし能隆が1201年生ってことは、何歳の時の子なんだろう。
8代
(1201-1258)
 母は大友光能の女(「能」は光能からか)。従五位下、右京大夫。妻は左中将藤原公清の女とも大友能直の女とも。
 武朝曰く「
先祖」。大番役を勤め、1221年、承久の乱で上皇方に付く。二人の叔父・家隆、隆元を送るも敗れ、所領をごっそり削られてしまう
 う〜ん、家紋変更したのに相変わらずツイていないぞ。


玉名大神宮
 ここの東末社の祭神となっている。
9代
(1225-1276)
 母は左中将公清の女。従五位下、式部少輔。隆「安」とも。妻は中将隆政の女、託麻能秀の女、宇野詮治の女など。
 所領回復を目指すも実現せず。何をしたかはよく知りません…。

玉名大神宮
 ここの西末社の祭神となっている。
 
10代
(1245-1298)
 母は中将隆政の女。贈従三位。妻は右京大夫光資の女。
 武朝曰く「
高祖」。元寇では祖先達が削られた所領を挽回しようと大張りきり!まず文永の役では赤坂という要所を任され、元軍を撃退するなど大活躍、竹崎季長に「かっけぇ…」と言わしめる。
 弘安の役では
生の松原の石築地上で余裕こいている姿を竹崎季長にスケッチされてしまうが、元軍の上陸を阻止するなど活躍したようだ。
 しかし霜月騒動の影響で武房には恩賞は与えられず。やっぱりこの一族はツイていないのか…。
 この人の墓所が不明とかおかしかろうもん。

阿蘇神社
 元との戦いに出陣する前に願を掛け、戦後は朝廷からもらった鎧を奉納した。
○元寇
 文永の役では赤坂に陣取る元軍を追い払い、首を挙げて凱旋する姿が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。ここで
元軍と槍との戦いを経験し、これが後の千本槍につながったとされる。
 弘安の役では生の松原あたりの石築地が肥後担当で、ここからはたしかに博多湾がよく見える。
能仁寺
 武房創建のお寺。隈庄城そば。
円通寺
 菊池市旭志。初代則隆が山城から移した寺で、武房も15町寄進している。
北福寺
 武房が再建した後の菊池五山。
千田八幡宮
 武房が長刀を奉納した神社だが…、なんと約20年前に盗難に!普段は社務所に保存をしているのを、神殿に移して保存したらやられたという。「神殿にご神刀!」という貼り紙したのがまずかったらしい。
城山神社
 菊池神社の摂社。重朝と一緒に祀られているけど、重朝ごときと一緒とは…。
○竹崎季長
 文永の役では武房をみて「かっけぇ…」と言い、弘安の役では敵船に討ち入るのを見届けるように武房にお願いしつつ武房らをスケッチした人。
玉名大神宮
 ここの西末社の祭神となっている。
延寿屋敷
 武房が招いた刀工の屋敷。
  菊池隆盛
(1271-1293)
 母は右京大夫光資の女。妻は中院三位の女または式部大輔家愛の女。
 娘の「蔭子」はべっぴんさんで二条関白道平さんの妾になり、その娘の「栄子」もどえりゃあべっぴんさんで
後醍醐天皇の妾となったという…えっ!?
 父より先に死去。23歳。
11代
(1287-1304)
 母は隆盛の2人の嫁のどっちかで不詳(式部大輔家愛の女説あり)。
 武房の跡を継ぐはずだった父・隆盛が、武房存命中若くして死去したため、隆盛の子で年少の時隆が跡を継ぐことになった。
 しかし叔父・武本がこれに納得いかず、家督争いが勃発する。鎌倉に赴き得た裁定は、「時隆やろ」。喜びもつかの間、
キレた武本にキリかかられ、なんと二人とも死んでしまった…。18歳…。
 しかもキレた方の武本の子が甲斐に移住し名将甲斐宗運を輩出するのだから、やっぱりツイていないのか…。

○甲斐宗運
 後の御船城主。戦国阿蘇氏を支え続けた名将の祖が、まさか短気な武本だったとは…。
玉名大神宮
 ここの西末社の祭神となっている。
12代
(1292-1333)
 時隆の弟で、時隆が死んじゃったため家督がまわってくるラッキー。母は時隆と一緒(すなわち不詳?式部大輔家愛の女説あり)。贈従一位。法名真空寂阿。
 幼名正龍丸。天皇(尊良親王とも)の綸旨を受けて、「よっしゃ」と九州探題を襲撃したパワフルおっさん。しかし大友、少弐の裏切りに遭い失敗してしまう。
 探題府から騎馬で逃れる際、
六本松付近で首が落ちたのに気がつかず、七隈までそのままたどり着いたというエピソードを持つ(脚色あり)。誰か教えてあげてよ…。
 ともあれ後事を武重、武光らに託し菊池に戻し(袖ヶ浦の別れ)、自らは壮烈に戦死。かっけぇ…。その遺志はしっかりと武重、武光に受け継がれたのでした。
 後に楠木正成により「何だかんだと言って、生きている我々に対し、命をなげうった武時が一番!」と賞賛されたらしい。

阿蘇神社
 探題館襲撃前にお詣りして、鏑矢に歌を添えて奉納している。「武夫の上矢のかぶら一筋に思ふ心は神や知るらむ」。御利益なかったね。
○日本一の不当人共
 少弐、大友めらのこと。裏切りを知って二人をこう罵り、
そんな奴らを頼んだ自分が馬鹿だったと憤激したという。
○探題館
 探題府は櫛田神社やその東北あたりだったとか。その所在をめぐって未だに書籍で罵り合いが行われている怖い場所。
○神社に矢をぶっ放す
 とっきーが探題館を襲撃しようとした際、櫛田神社の前で馬が動かなった。びびる家臣達を前にとっきーは「今から義挙をなすのに邪魔だてするとは何事か!この武時の正義の矢を喰らえ!(管理人による脚色大)」と矢を二本、門にはなったところ、馬は動くようになり士気が上がった。後になって、門には射られた大蛇が確認されたとか。なお、菊池寛も平泉澄も「武時がそげなことするわけなかろうもん!」とそろって否定している。

○子だくさん
 15(16)男1女!X遺伝子大勝利!
胴塚
 七隈の菊池神社。そこそこ立派な神社だ。平泉氏はこれは根拠がないという。
首塚
 六本松の菊池霊社。ミニ公園となっており、子供達が無邪気に遊んでいた。あそこに祀られている人はとんでもないお人だったんだぞ!しかし平泉氏はやはりこれも根拠がないという。
日輪寺
 とっきーが再建したとか。供養塔がある。
願行寺
 山門はとっきーの寄進。二代住職がとっきー六男の武村というが、系図にはみあたらない。なお、この山門を寄進するとき、雹が降ってきたという言い伝えがある。
菊池神社
 説明不要。とっきー、しげちー、みっくんが主祭神。銅像がある。
遙拝所
 能運墓の側にある。武時、武士、武朝とセットで碑が建っている。
三賢堂
 肥後の三賢人として銅像が置かれている。良い面構えだ。
玉名大神宮
 ここの西末社の祭神となっている。
13代
(1307-1339or1341)
 母は赤星有隆の女。従五位下、肥後守。贈従三位。妻は万里小路藤原宣房の女、星野実秀の女。
 博多合戦に従軍するが、袖ヶ浦で父・とっきーに「熊本に帰りな!」と後を託される。この時、自分の子とは別ルートをとり、自身は帰還できたものの、子は横隈で殺されてしまった。
 ともあれ、父の功により肥後守に任命される。京にあった時、足利尊氏討伐の新田義貞の軍に従い、数多くの功を挙げ、箱根の戦いでは足利直義相手に考案した
「菊池千本槍!」でツンツンし、敵を「遙かの峰へまくりあげ」た。さらに新田義貞の撤退を支援し賞賛された。
 しかし武重は九州にいるべきだった。九州へ逃げた尊氏を弟の武敏が迎え撃つが、
不死鳥武敏(詳しくは武敏の項参照)と言えども、大軍の指揮は向いていなかったか。武敏は大敗し、尊氏は息を吹き返してしまうのだった。
 武重は帰国後犬塚原で大勝するなど、すぐに南朝勢力をまとめ上げるのに成功している。しかし
30歳ちょいで死んでしまう(諸説有り)あたり、やっぱりツイていないのか…。
 武重は戦だけの人間ではなかった。大智を招いて精神的支柱とし、彼の『菊池家憲』は
五箇条のご誓文、大日本帝国憲法制定の際に参考にされたのだ、えっへん。

○重子
 娘の重子さんは懐良親王のお妃様になったようで、お墓もある。重子って、武重の子ということで勝手に後世付けられたんじゃないよね…。
○意外ときかん坊
 雑訴決断所から「詫磨氏に大浦・皆代の地頭職を渡すように」とのお達しがあったにもかかわらず、武重は突っぱねて困らせている。
○五家荘
 五家荘の存在を知ったしげちーは、
わざわざ寄合衆と評定し、しかもみっくんを寄せ手の大将として攻撃しようとした。そこに尊氏が九州に落ちてきたということで急遽中止となった。これはウソっぽくないか。
○菊池千本槍
 「三十余人太刀・長刀の鋒を並べ」たそうだ。槍を使った戦いは以前にもあったようだが、槍を組織的に運用したのがこれが初めてだとされる。
菊池氏は武房の時に元軍と槍との戦いを経験していたのだ。
木葉城
 奪取かつ少弐頼尚を撃退したといわれていたお城(近年ここではないとわかってしまった)。
戸代山城
 豊前に攻め入ったしげちーが築城した。
大善寺城
 しげちーが攻め落としたお城で、みっくんを入れた。しげちー築城という説もある。
苅田松山城
 しげちーやみっくんが攻め寄せたというお城。
寺尾野城
 京から戻って旗揚げしたお城。
備中福山城
 戻ってきた尊氏を迎え撃ったお城。
○鞍岳
 甲斐重村を破った場所。
菊池神社
 主祭神となっている。
金峰山蔵王権現社
 勝利のお礼に社殿を再興し、後に自分の霊社が建てられる。
お墓
 東福寺のそばにある。かつてはここも東福寺の一部で、歓喜院といったらしく、どうせならみんなと一緒にしてあげればいいのに…。ところで、武士に家督を譲って剃髪し、歓喜居士と称し修行に励んだというが、そんな余裕あったのかな…。
聖護寺
 しげちーが大智を招いて開いた。
高平神社
 しげちーが再興した。
○菊池家憲
 横井小楠から由利公正へと紹介され、第二条の
「国務の政道は、内談の議を尚すべし。武重すぐれたる議を出すというとも、管領以下の内談衆一同せずば、武重が議を捨てらるべし」が五箇条のご誓文第一条に影響を与えた。同一箇所を読んだ伊藤博文が大喜びし帝国憲法制定の際に参考にした。しかもこれは現存する最古の血判書でもあるのだ!
○遺言
 
力量のない人間は潔く家督を辞退して兄弟か一族の誰かに譲れ!と言い残してしまったため、弟・武士は…。
14代
(1321-1401?)
 母は武重と同じ=赤星有隆の女とされる。武士の子孫は母を大納言宣房の女としているが、これは武重公の妻と言うから誤りでしょう(あったとしても義母)。なお、妻は菊池武澄の女、隈部隆忠の女という記録がある。
 正腹の子ということで兄たちを差し置いて家督を継いでいるということは後者だろうか(となると武重の母もおかしくない?)。ともあれ、
兄たちをごぼう抜きして家督を継いだものの、やっぱりツイていない、継いだ時期が悪すぎた。
 教養はあったのかもしれないが、何せ動乱の真っ直中、大友氏泰と争い頑張って一時は撃退するものの徐々に圧迫され、合志幸隆に本城を奪われてしまう。
 さらに武重が残してしまった遺言もあっため、家臣団から武士に
隠退勧告がなされてしまう。ああ、とことんツイていない…。
 追いつめられた武士はくそ真面目に
おれは愚昧だから「器用の仁」に家督を譲ると宣言し、末弟・乙阿迦丸を養子とし候補に挙げるが、最終的には武光が家督を継いで出家したのでした(乙阿迦丸を15代とする系譜もある)。と言いながら、なんとスパイ活動をしていたという説もあるらしい。それが本当だとしたら、食えぬ御仁だ。

○天罰起請文
 苦難を乗り越えようと庶子家の発言力を高める内容になっており、かつ約束を破ったら天罰くださいというM気にあふれている。
遙拝所
 能運墓の側にある。武時、武士、武朝とセットで碑が建っている。
墨染めの桜
 30年ぶりに菊池に戻ったときに桜を見て詠んだ「袖ふれし花も昔を忘れずば 我が墨染をあはれとはみよ」からきている。
正福寺
 武士が開基とされ、墓がある。
菊池神社
 ここの祭神になっている。
  乙阿迦丸  武時の末子。幼名乙阿迦丸で、武士の後釜候補であった。武光を16代とし、彼をを15代とする系譜もある。ここではひとまず広福寺の位牌にならって、武光を15代としたい。
 武光が出しゃばってこなければ…、というお人だが、1364年馬ヶ岳で大内弘世を破るなど地味に活躍している(彼が一説にある「武勝」なら)。蜷打の戦いにも参陣した(武勝なら)。
 正直この人についてはよくわからないので、飛ばしてください、はい。

馬ヶ岳城
 九州にやってきた新田一族の居城。後に秀吉の宿舎となったり、黒田氏の居城となったりしている。
千布・蜷打の戦い
 武朝が調子に乗って大打撃を受けた戦い。参戦していたかも。
15代
(1319-1372or1373)
 でた!ついにでた!よっ、南北朝時代の真の主人公!は?尊氏?正成?そんな人もいたっけね。
 母は赤星有隆の女。肥後守。贈従三位。
 失われた本城を奪回すると、
一族を出し抜いて吉野にかけあって肥後守をゲットするという力業で既成事実を作り上げ、なし崩し的に家督を継承する事に成功する(おかげで兄の武澄が苦労したんだけどね)。そして立ちふさがる敵をちぎっては投げ、ちぎっては投げ勢力を拡大。
 武家方、佐殿方(少弐方)の降伏を笑顔で受け入れ、さらに裏切られても片手でひねりつぶす。筑後川の戦いでは菊池軍の力を天下に大いに示したのでした。
 肥後、筑前、筑後、豊後、日向、所狭しと
九州各地を駆けめぐる姿はまさに神出鬼没(武澄のおかげでもあるけど)。念願の大宰府占領はもちろん、薩摩以外の九州をほとんど平らげ南朝勢力全盛期を築いたのでした。
 送り込まれる九州探題も笑顔で追い払うが、やはり最後に落とし穴が待っていた…。新しい探題として今川貞世がやってきたのだ。
 この今川貞世というおっさん、とにかく慎重だった。途上で九州を逃れた北朝勢力から兵力と情報を収集し、満を持して大軍を率いて三方向から上陸してきたのである。
 さらに貞世の調略で薩摩日向を含めた
四方面から敵を引き受けることになったみっくん、体が4つあれば…。結局大宰府を放棄し高良山へ後退したのでした。肥前・筑後方面の武澄、薩摩・日向方面の惟澄が既にこの世を去っていたのも大きかったな。
 なお、文中元(1372)年3月3日高崎山の今川義範が阿蘇惟村に送った書状の中にみっくんの名前があるのを最後に、実はみっくんは姿を消している。これは大宰府陥落の五ヶ月前だ。よって、決戦好きのみっくんが目立った決戦をせず、今川方にもみっくんについての言及がないことから、川添昭二、長沼賢海氏らは
みっくんは大宰府陥落前に実は急死していたという説をとっている。もともと短命な一族ですからねー。

正観寺
 みっくんが博多合戦でかくまってくれた大方元恢を招いて建立した寺。樟が墓印らしく、紅葉がきれいだ。武澄、武政、武国の墓もある。しかし、これで大智との関係悪くしたような…。
大琳寺
 菊池五山を定めたとき、それぞれの中央にあたる地に建立。
銅像@
 市民広場に堂々と立つ。自称「日本一の騎馬像」。
銅像A
 みっくんが刀を洗ったという大刀洗町の大刀洗公園に立つ。米軍の機銃掃射の弾痕でも有名。え?知らない?
○地下の宝物
 横井小楠が如意輪寺に「菊池武光画像」を送ったが、使者が誤って寺の奉公人に渡してしまったため、「地下(百姓)の宝物」になってしまったらしい。なんじゃそりゃ。
○ぎんぷくりん
 1360年、3000余騎で合志定実を破り、「鞍岳はぎんぷくりんか今朝の雪、梨子地まだらに見ゆる山形」と歌ったという。『菊池風土記』は「
武光にしてはひどく下品」として否定し、加藤清正家臣の桜井素丹のものだと断定している。桜井さんとやらがかわいそう…。
薩摩菊池城
 谷山に上陸した懐良親王のために、みっくんが築いたと言うが本当だろうか。
大善寺城
 しげちーが攻め落としたお城で、若いみっくんが入った。ほんまかいな。
苅田松山城
 しげちーやみっくんが攻め寄せたというお城。ほんまかいな。
小倉山城
 みっくんが籠もったという。ほんm
高崎山城
 みっくんが落とせなかった、かた〜いお城。
毘沙門嶽城
 筑後川の戦いで一時本陣となったり、大宰府陥落後の征西府となったりした要衝。
杉城
 大宰府陥落後の征西府となった要衝。
筑後川の戦い
 といっても、戦いは筑後川を渡って行われたんだけどね。
長者原の戦い
 菊池武義を救援し、城武顕の活躍もあり大宰府を狙った斯波・少弐軍を撃破。
隈府城
 現・菊池神社。みっくんが築いたとも言われる。
16代
(1342-1374)
 母は阿蘇氏の女とも言われるが不詳。肥後守。贈従三位。妻は阿蘇惟澄の女か。
 高良山に入っても武光の力で豊前、豊後ではかえってまだ宮方が優勢だった。さすが武光!
 しかしみっくんの死により、武政は
30前後の若さで家督を継ぐことになった。しかも今川貞世という強敵を迎えた中で家督を継ぐ羽目になるとは、やっぱりツイていないのか。
 高良山で戦い続ける中、後方の肥前攪乱を試み、そのため貞世は高良山攻撃を遅らせる必要に迫られるなどの成果を上げる。
 しかしマサは父の死後間もない文中3(1374)年5月26日、
33歳で没したのでした。ツイてねぇ…。なんか一族の皆さん、短命すぎませんか?

○眼が…
 文中2(1373)年5月の阿蘇惟武に対するお願いメールの中で、「
眼が病んでいるから書状を読めない」と告白している。32歳で眼をやっているなんて…。しかしその間誰が戦いの指揮を執っていたんだろう。
本告城
 肥前攪乱のために進出した際は、「本告」がターゲットだったのだ。
正観寺
 みっくんが博多合戦でかくまってくれた大方元恢を招いて建立した寺で、武光、武政、武澄、武国の墓がある。マサも残された時間がないのを悟ったのか、死の4日前に後世の菩提のために千田荘永富村田地四町を寄進している。
菊池神社
 ここの祭神になっている。
17代
(1363-1407)
 母は阿蘇惟澄の女か。贈従三位。妻は宗盛義の女。
 祖父と父が立て続けにこの世を去ったため、ツイてないことに(もう良いって?)
まだ花押も書けない12歳で家督を継ぎ、良成親王と共に今川貞世と戦う。高良山を維持しながら戦っていたが、耐えきれず肥後へと後退する。貞世はすぐに追撃せず降伏勧告を行うが、武朝はこれをはねつける。若いのにしっかりしている!
 そして一八外城の台城まで攻め込まれるが、ここで貞世が少弐冬資を殺害し、九州御三家から「信用しねーよ!」と協力を失うという失策を犯す。とうとうラッキーがめぐってきたか!?
 幸運をものにした武朝はなんと
貞世に勝利し、肥前、筑前にまで進出するなど勢いづく。しかし調子に乗りすぎたようだ。肥前蜷打の戦いで菊池武安、武義に加え、良き協力者である阿蘇惟武まで失ってしまい、以後肥前、筑前への進出は不可能になってしまった
 その後、託麻原でも勝利を挙げるなど踏ん張るが、家臣団からの讒言を受け、
「自分は他の連中とは違うんだよ!」と『菊池武朝申状』を書く始末に。この忙しいときにツイていない…。しかしこれが菊池氏の歴史を解き明かす重要資料になり名を残すのだから、人生わからないなぁ。
 で、最終的には宇土から八代へと敗退して南北合体を迎える。そして貞世に従うこと、菊池貞雄の地位を認めることを条件に、菊池に復帰した。
 個人的には、
当主の中で彼が一番劇的な人生を歩んでいると思うのです。

○花押書けません!
 阿蘇惟武へのお願いメールの中で、「まだ幼くて花押書けないの」と言っている。そりゃ12歳で家督嗣がされたんじゃあ仕方がない!
福童原の戦い
 弱気はいかんと、ともくんはあえて高良山を出て、福童原の今川方に戦いを挑んだ。肥前にいた今川貞世も急行し、結局ともくんは敗れ、高良山を放棄した。現在の福童原は水田地帯となっており、こんな平野で大軍に戦いを挑んだのかなぁ。
水島の戦い
 西からの敵に備える重要地点だったらしい。今川貞世の失策に乗じて、奇跡的に勝利を得る。古墳あたりも城の一部だったようだが、今や面影はない。
千布・蜷打の戦い
 水島の戦いで勝利して調子に乗って肥前に進出したら、痛い目に遭わされた戦い。副将格の武安・武義らが戦死。
託麻原の戦い
 ともくんがまず今川軍相手に突撃をかまし、危なくなったときにさらに良成親王が突撃をかまして、「運を天に任せて」勝利したとか。古戦場の碑や戦死者を弔う「八万千部の碑」がある。そんなに大人数だっけ?
板井原の戦い
 託麻原の後も勢力を回復することは出来ず、亀尾(板井)城まで占領されてしまった。板井の陣で菊池本城を放棄する羽目に。
宇土古城
 菊池を放棄後、流浪している間に入った。結局ここも追われるんだけどね。
古麓城
 最終的に避難したお城。結局ここで降伏するんだな。
遙拝所
 能運墓の側にある。武時、武士、武朝とセットで碑が建っている。
北宮神社
 菊池氏の氏神で、ともくんが建立した。それ以前にも菊池の氏神はあったようだが。
杵築神社
 ともくんが建立したという説があるが…。
真徳寺
 墓所「らしい」。五社尾城近くにある。
菊池神社
 ここの祭神になっている。
守山八幡宮
 反武朝勢力が籠もった場所という説があり、武朝が攻めている。
○菊池武朝申状
 ともくんのリーダーシップを疑った一味の讒言に答えるためにしたためた文章。「我が一族は他とは違うよ!」というものだが、つらつらと歴史を遡って書いてくれたおかげで、菊池家を知るための貴重な資料となっている。
18代
(1383-1445)
 母は宗盛義の女。従四位下、肥後守、右京大夫。妻は河尻広覚の女。
 武朝の死後家督を継ぐが…、これまた24歳と若い!
 彼は
ひたすら反幕府を貫き、大内盛見を後見とする九州探題渋川義俊、幕府と結ぶ大友親世と戦いまくり、箱崎宮を炎上させるなどのやんちゃもやらかした。。
 特にわざわざ豊前馬ヶ岳まで出張って幕府側についていた新田義高と争い、新田氏を滅ぼしたのは執念としか言いようがないか。
 持朝と争ったという説がありますが、最後は佐敷城か兼丸城に隠居し、佐敷山中で死去したという。

駅館川の戦い
 一族を派遣し、幕府方の新田一族と戦った。
馬ヶ岳城
 新田義基入城以来、南朝方の拠点であったが、新田義氏の降伏以来幕府方となっていた。
佐敷城
 持朝と家督争いがあったかは別として、佐敷で死亡したのは確かなようだ。そのころは立派な石垣はなかったでしょうが。兼丸城か。
兼丸城
 兼朝隠居城候補。地元民に拒否されたけど、教育委員会から「行ってもらって全く構わない」とのお墨付きを得たぞ!
川尻城
 兼朝が攻め落とした城。
成道寺
 兼朝が開いたお寺。
千寿庵
 近所の人からすれば千寿庵は味噌屋のことらしいが、ここが墓だと言われる。
正善寺
 やっと見つけたぞ!七城町にあるが、佐敷で死去したことを考えると本墓は八幡兼丸の千寿庵が有力…なのかな?
19代
(1409-1446)
 母は河尻広覚の女。従四位下、肥後守、左兵衛督。妻は不詳。
 一転して幕府に協力し大友持直と戦い、
筑後守護職をゲットするのに成功する。菊池が足利幕府の要求に応じたのはこれが始めてのことだから驚きだ。
 急激な方針転換から、兼朝との間に対幕府方針を巡っての対立があり、持朝が兼朝を追いやったとの説もあるが、
持朝はまだ15歳ですぜ。どんだけ大人びているんでしょう…。
 他にも息子達を遠い一族に養子として送り込み、独立性を抑えようと試みた。
 ただ、弟・新宮忠親や高瀬泰朝と貿易の権益を巡って争い、忠親を殺すは、泰朝が相良領の佐敷に逃れたときには
「そいつ殺してよ!」と執拗に要求したあたり、結構気性の激しい人だったのかもしれない。
 ともかく正観寺の和尚さんに「
此一人文東武西之名冠干彼九牧」と褒めちぎられ、菊池後期の名将と言われた持朝も38歳で死去。つくづく短命な一族だなぁ。

生の松原
 少弐教頼が筑前に出兵した際、大内教弘とともに生の松原で破ったらしい。
下庄八幡神社
 持朝寄進で、現瀬高町にある。ここまで勢力が及んでいたことがわかる。
光善寺
 持朝の創建で、彼の墓もここにあります。
長福寺
 持朝と揉めて自害したとされる弟くんの墓。やっぱ切腹しなくていいよの使者が遅れたために…。
20代
(1430-1488)
 母は不明。従四位下、肥後守。妻は宗兼義の女。
 文教、貿易では大いに成功し、名前は京都にまで届いたこの御仁、しかし残念なことに戦は得意ではなかったようだ。
 幕府から筑後守護職の半分を取り上げられ、大友氏に与えられたのをきっかけに大友氏と争うが、高良山では弟である肥前守為安を失うなどぱっとせず、結局
筑後守護職をすべて失う
 一揆は起こされるわ、弟には背かれるわ、ともあれ自分は戦いに向かないと悟ったようで、
さっさと重朝に家督を譲り、自分は得意分野の文教に没頭したようです。なんて往生際の良い…。

○一揆!
 1455年、隈府城を一揆勢に取り囲まれたので島津勝久の救援を得て撃退したという。何しているんだか…。
別所城
 弟・為安が大友家臣志賀親繁と戦って戦死した。
豊福城
 為邦の弟・武邦(系図には見あたらず)が豊福城で反家督の兵を挙げ、子・重朝が鎮圧している。実際に挙兵があったかどうか怪しいらしいが。
○受図書人
 日朝交易を行ったらしい。
玉祥寺
 為邦が開いたお寺で、彼と子の重朝の菩提寺となっている。
碧厳寺
 文教では有名な御仁だったので、隠居城である亀尾城そばの碧厳寺に玉祥寺から分墓されている。
21代
(1449-1493)
 母は宗兼義の女。従四位下、肥後守。贈正四位。妻は大友政親の女(←これ、実は重要)
 孔子堂の建設、菊池万句の開催、桂庵禅師の招聘など文教では成功するが、やっぱり血は争えないのか、父ほどではないけど戦はあまり得意ではなかったうだ。
 いや、それどころか応仁の乱での立ち回りの失敗で
菊池の名声を落としたばかりか、領土問題で難題をふっかけ叔父・宇土為光に敵に回すなどの失態を犯した点、そして結局馬門原で相良氏に敗れた点では父よりも罪は重いか。
 「
菊池重朝一家錯乱」とも言われた彼は45歳で没したのだが、結局そのしわ寄せは息子の能運に及んだのでした。

豊福城
 為邦の時代、為邦の弟・武邦(系図には見あたらず)が豊福城で反家督の兵を挙げたが、鎮圧している。実際に挙兵があったかどうか怪しいらしいが。
孔子堂
 孔子と10人の弟子を祀り、そこで講義を行ったらしい。孔子堂跡の碑が建つ。
菊池万句
 一日一万句の連歌会。これをきっかけに家臣団の結束をアピールし、状況を打開しようという政治的意図もあったようだ。
城山神社
 菊池神社の摂社。武房と一緒に祀ってもらえるなんて贅沢な…。
玉祥寺
 父・為邦が開いたお寺で、父と仲良く並んで墓碑がある。
馬門原の戦い
 別名幕の平の戦い。相良連合軍に敗れ、八代・豊福を失う。
22代
(1482-1504)
 母は大友政親の女。従五位下、肥後守。12歳で家督を継ぐ(あれ?なぜかちっとも驚かない)。
 能運は相良為続と戦い豊福城、古麓城をおとすと為続は八代を放棄した。ここに重朝の
馬門原以前の秩序を取り戻すことを成功したのだが、この後がいけなかった。
 隈部氏からの権力奪回をねらい
「隈部退治」と称して玉祥寺原(袈裟尾原)に戦うも一族をまとめきれずに大敗を喫してしまい、島原に逃れる。この間、残された家臣団は「家中一致」で宇土為光を推戴してしまう
 
「武運」が「不運」につながるからと「能運」に改名した成果が出たのか、その後菊池奪回に成功し、さらに古麓も奪回する。改名の効果覿面、さあこれからと言うときに、やっぱりツイていなかった。25歳の若さであえなくなく急死、改名は死期を遠ざけることは出来なかったか。ていうか、この人何歳で家督を継いだんだっけ…。
 ともあれ、せっかくまとめかけた家中にまた混乱が生まれたのでした。

竹崎城
 豊福城の相良為続を攻めた際、竹崎城外の向上寺(現・興乗寺か)付近に陣取った為続に勝利している。
古麓城
 豊福から為続を追った後、さらに古麓城に為続を攻め球磨に追い払っている。
玉祥寺原の戦い
 玉祥寺(袈裟尾)原の戦いということは、玉祥寺付近だったのでしょう。これに敗れ島原へ逃亡。
○改名
 「武運」が「不運」と似ているからといって、「能運」に改名した。
西覚寺
 能運が土地を寄進して開かれた。西南戦争では薩軍の本陣に。
実相院
 正観寺そばの実相院とやらに墓がある。すぐ横には武時、武士、武朝の遙拝所の碑がある。
○米良氏
 妻はよくわからないが、子・重次を弟・重房に託して日向米良荘に入らせたという説がある。
 
(?-1503)
 母は不明。為邦の弟で、父・持朝から宇土氏に送り込まれ家督を継ぐ。
 重朝の領土割譲要求を呑めず、重朝の侵攻を受け赤熊で応戦するも敗北し、相良氏を頼る。馬門原の戦いの後は宇土に復帰する。
 能運が隈部氏との争いに敗れ島原に逃れている間、
「家中一致」で推戴されるが、戻ってきた能運に敗北し殺害され、宇土氏は滅ぶ。せっかく菊池から宇土に逃れられたのに再度関わりを持ったために…、やっぱりツイていない。

宇土古城
 宇土氏の本拠。公園化されているが、ちょっと興醒め。
お墓
 ここまで酷い仕打ちをしなくてもいいじゃない!
23代
(1489-1509)
 能運には子がなく(子・重次は米良にやっちゃった)、先の玉祥寺原で能運について戦死した肥前家重安の子・政隆(当時政朝)が後継に指名される。ラッキー!父のおかげ。母は高瀬泰朝の女(曾祖父の弟の娘…っておいおい)とも、隈部武治の女とも。
 
うん?家督嗣いだのが14歳?これは危険な香りがぷんぷんするぞ!?さっそく大友氏の介入と反勢力に担がれた阿蘇惟長(菊池武経)に肥後守護職を追われ、島原に逃れる。
 島原で挙兵し肥後に上陸するも、南関の臼間野桜馬場で敗れ大友方に捕まったという。一度は家臣に助け出されるが、久米原の戦いに再度破れてしまう。そして身柄を武経に渡され、同地の安国寺で自刃した(自ら寺に入り自刃したとも)。
21歳…、ツイてないぜ…。

浜の館
 政隆が攻めたかもしれないお城。どっちにしろ、攻略できていないけど。
内空閑城
 阿蘇惟長とそれを支援する大友氏に内空閑城で対抗したが敗れ、石貫城を経て最終的には島原に逃れる。
○筒ヶ嶽城
 島原から復帰して筒ヶ嶽城に籠もるが、やはり敗れてまた島原に逃れる。
安国寺
 再度挙兵するも敗れ、合志郡久米の安国寺で自刃。墓は泗水町の安国寺。
   従四位下、肥後守。阿蘇惟長。反政隆派に担がれ政隆を追い家督を継ぐも、家臣団との不和と大友氏の圧迫で家督を放棄した。
 その後は子の惟前とともに大宮司職を弟の阿蘇惟豊と争い続け、失意のうちに
堅志田城で病死している。ああ、やはり菊池氏に関わったばかりに…。

堅志田城
 偶然見つけた城だが、なんとここで病死したのか。
24代
(?-1532)
 なんと菊池武澄公の子孫・託麻武安の子。肥後守。
 
武経の放棄で当主が空位になるという大チャンス!そこで一家が託麻家の武包一を迎えるというラッキーに恵まれる。おお、ついに武澄公の血筋が当主の座に!
 しかしそれもつかの間、武包は大友重治らに敗れ守護職を奪われ島原に逃れる。
そのまま挙兵をする事もなく島原の大野城で死去したという。
 
菊池の血を引いた最後の当主となった。

○筒ヶ嶽城
 菊池で義武に敗れた後、筒ヶ嶽に籠もるが甲斐親宣に落とされ島原へ逃亡。
大野城
 肥後を追われた武包は肥前大野城に逃れたが、結局ここで死亡。
 
(1504or1505-1554)
 大友重治。義宗、義武、義綱などと改名を繰り返す。
 菊池重朝の妻=菊池能運の母親が大友氏の女であることから大友氏につけこむ隙を与えてしまい、大友重治が大友氏から送り込まれ家督を継ぐ。
 しかしやがて大友氏から離反。しかし戦えば敗れ、家臣団との和も保てず諫めた木野親則を切るなどもうめちゃくちゃ。最後は
甥っ子の大友義鎮によって自害に追い込まれる。だから菊池氏にはかかわるn…

法泉庵
 義鎮と争っては敗れ逃亡を繰り返し、義鎮の誘いで八代から豊後へ行く途中に自害に追い込まれる。某書には宝泉庵とあるけど、違うぞ!