生涯 |
蔵規と記述されることが多い。
もとは帯刀、左兵衛尉として京都にいた。1014年に高田牧司を任せられる(おいおい何歳だよ…)。
1019年の刀伊入寇では中心となってこれを撃退するなど、大宰権帥藤原隆家の片腕となる。現地に赴任しない対馬守ではいけないと、現地の「武芸者」をということで白羽の矢が立ち1022年対馬守に任じられている。
「大宰大監」である政則が鵞2羽と孔雀1羽を藤原道長に献上したという記録が残っており、宋との貿易にもしっかり励んでいたようだ。
菊池則隆の父ということになっているが、政則は中央出身の下級貴族で、後代になって菊池一族が箔をつけるために政則を則隆の父として菊池一族の系譜に取り込み、さらに藤原隆家に系譜をつないだ、という説もある。 |