第21代当主


0.藤原政則  1.菊池則隆  2.菊池経隆  3.菊池経頼  4.菊池経宗  5.菊池経直 
6.菊池隆直 7.菊池隆定  菊池隆継  8.菊池能隆 9.菊池隆泰 10.菊池武房
 菊池隆盛 11.菊池時隆  12.菊池武時  13.菊池武重  14.菊池武士  15.菊池武光
16.菊池武政  17.菊池武朝  18.菊池兼朝  19.菊池持朝  20.菊池為邦  21.菊池重朝
22.菊池能運   宇土為光 23.菊池政隆   菊池武経 24.菊池武包   菊池義武

生没  1449年〜1493年10月29日。母は宗兼義の女。妻は大友政親の女(実は後の一族を左右)
生涯  従四位下、肥後守。幼名藤菊丸。法名梅屋祥英。
 孔子堂の建設、菊池万句の開催、桂庵禅師の招聘など文教では成功するが、やっぱり血は争えないのか、豊福城の乱を鎮圧したものの、父ほどではないけど戦はあまり得意ではなかったうだ。
 いや、それどころか応仁の乱での立ち回りの失敗で菊池の名声を落としたばかりか、領土問題で難題をふっかけ叔父・宇土為光に敵に回すなどの失態を犯した点、そして結局馬門原で相良氏に敗れた点では父よりも罪は重いか。
 「菊池重朝一家錯乱」とも言われた彼は45歳で没したのだが、結局そのしわ寄せは息子の能運に及んだのでした。
エピソード ・城山神社ではなんと第10代当主菊池武房と一緒に祀られている。この組み合わせがよくわからない。
・伯父の宇土為光が積極的に菊池領を覗った形跡はなく、むしろ阿蘇惟歳の言い分を受け入れて宇土領の一部を阿蘇氏へ割譲するように、との重朝の無理難題を為光は呑むことが出来んかったことが対立につながったようだ。そして重朝の方が宇土領に侵攻していったのである。
・妻に大友氏の女をむかえたばっかりに、後に大友氏につけ込む隙を与えてしまうことになった。
関連史跡 ○お墓
 ・玉祥寺
○お城
 ・豊福城
○神社
 ・城山神社
○その他
 ・馬門原の戦い  ・孔子堂