生没 |
1449年〜1493年10月29日。母は宗兼義の女。妻は大友政親の女(実は後の一族を左右)。 |
生涯 |
従四位下、肥後守。幼名藤菊丸。法名梅屋祥英。
孔子堂の建設、菊池万句の開催、桂庵禅師の招聘など文教では成功するが、やっぱり血は争えないのか、豊福城の乱を鎮圧したものの、父ほどではないけど戦はあまり得意ではなかったうだ。
いや、それどころか応仁の乱での立ち回りの失敗で菊池の名声を落としたばかりか、領土問題で難題をふっかけ叔父・宇土為光に敵に回すなどの失態を犯した点、そして結局馬門原で相良氏に敗れた点では父よりも罪は重いか。
「菊池重朝一家錯乱」とも言われた彼は45歳で没したのだが、結局そのしわ寄せは息子の能運に及んだのでした。 |
エピソード |
・城山神社ではなんと第10代当主菊池武房と一緒に祀られている。この組み合わせがよくわからない。
・伯父の宇土為光が積極的に菊池領を覗った形跡はなく、むしろ阿蘇惟歳の言い分を受け入れて宇土領の一部を阿蘇氏へ割譲するように、との重朝の無理難題を為光は呑むことが出来んかったことが対立につながったようだ。そして重朝の方が宇土領に侵攻していったのである。
・妻に大友氏の女をむかえたばっかりに、後に大友氏につけ込む隙を与えてしまうことになった。 |
関連史跡 |
○お墓
・玉祥寺
○お城
・豊福城
○神社
・城山神社
○その他
・馬門原の戦い ・孔子堂 |