生没 |
1246年〜1298年8月27日。母は中将隆政の女。妻は右京大夫光資の女。 |
生涯 |
贈従三位、実は当時無官。幼名次郎。菊池一族の「高祖」と称せられる。
祖先達が削られた所領を挽回しようと、肥後守護名越(北条)時章に接近するなどのがんばりを見せたが、名越は尾張に行ってしまった。続いてどうも元が日本を狙っているということで送り込まれてきた肥後守護代安達盛宗とも仲良くなるなど、政治的センスもあったようだ。
そんな中、元が攻めてきた。これは目立つチャンスと大張りきりだったことだろう。文永の役では「あかさかのちん」で調子に乗っていた元軍を撃退するなど大活躍、竹崎季長に「かっけぇ…」と言わしめる。
弘安の役では生の松原の石築地上で余裕こいている姿を竹崎季長にスケッチされてしまうが、元軍の上陸を阻止するなど活躍したようだ。
しかし後の霜月騒動で安達盛泰、盛宗親子は死亡。仲の良かった武房にはめだった恩賞は与えられなかった。やっぱりこの一族はツイていないのか…。
ていうか、日本を救ったこのお方の墓所が不明とかおかしいでしょう。 |
エピソード |
・文永の役の前年、北条実時宛の書状には「北条政村のお見舞いに行きたいけど、元に備えて手が離せないので一族の出田泰経をかわりにやります」とあり、ちゃんと頑張っていることをアピールしている。
・幕府からは冷遇されたが、朝廷からは恩賞として甲冑と感状が贈られたという。その甲冑は阿蘇神社に奉納したらしいが見たことがない。
・朝廷からの恩賞その2として、子の隆盛に内大臣中院通成の女が下賜されたという。女性を下賜って…と思うのは現代的考え方か。
・朝廷からの恩賞その3として、従三位が贈られている。約600年後に。
・無官だったが、尻鞘は虎の尻尾。貿易でもうけて結構金持ちだったようだ。 |
関連史跡 |
○お寺
・能仁寺 ・円通寺 ・北福寺
○神社
・玉名大神宮 ・阿蘇神社 ・千田八幡宮 ・杉水菅原神社 ・城山神社
○その他
・文永の役 ・弘安の役 ・生の松原 ・延寿屋敷
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