生没 |
1363年〜1407年3月18日。母は恵良惟澄の女。妻は宗盛義の女。 |
生涯 |
贈従三位。幼名賀々丸、武興。法名玄微常朝。
祖父と父が立て続けにこの世を去ったため、まだ花押も書けない12歳で家督を継ぎ、良成親王と共に今川貞世と戦う。高良山を維持しながら戦い、福童原に打って出るなどの気概を見せるが、耐えきれず肥後へと後退する。貞世はすぐには追撃せず降伏勧告を行うが、武朝はこれをはねつける。若いのにしっかりしている!
そして十八外城の台城まで攻め込まれるが、ここで貞世が少弐冬資を殺害し、九州御三家から「信用しねーよ!」と協力を失うという失策を犯す。幸運をものにした武朝はなんと貞世に勝利し、肥前、筑前にまで進出するなど勢いづく。
しかし調子に乗りすぎたようだ。肥前蜷打の戦いで菊池武安、武義に加え、良き協力者である阿蘇惟武まで失ってしまい、以後肥前、筑前への進出は不可能になってしまった。
その後、託麻原でも勝利を挙げるなど踏ん張るが、慎重な今川軍に板井の陣でジリジリと迫られ、隈府城を失い良成親王の鷹取城も落とされてしまう。
劣勢とみた家臣団からの讒言と反乱に対し、「自分は他の連中とは違うんだよ!」と『菊池武朝申状』を書く始末に。しかしこれが菊池氏の歴史を解き明かす重要資料になり名を残すのだから、人生わからないなぁ。
で、最終的には宇土から八代へと敗退して南北合体を迎える。そして貞世に従うこと、菊池貞雄の地位を認めることを条件に、隈府に復帰した。
その後、今川貞世がいなくなると早速探題攻撃を始めるなど、筑前、筑後、豊前に渋川や大友と戦っている。少しは休んでは…。
個人的には、当主の中で彼が一番劇的な人生を歩んでいると思うのです。 |
エピソード |
・阿蘇惟武へのお願いメールの中で、「まだ幼くて花押書けないの」と言っている。そりゃ12歳で家督嗣がされたんじゃあ仕方がない。
・かの有名(?)な菊池武朝申状は、ともくんのリーダーシップを疑った一味の讒言に答えるためにしたためた文章。「我が一族は他とは違うよ!」という内容だが、つらつらと歴史を遡って書いてくれたおかげで、菊池家を知るための貴重な資料となっている。 |
関連史跡 |
○お墓
・真徳寺 ・正善寺
○お城
・隈府城 ・台城 ・亀尾城 ・木野城 ・菊鹿鷹取城 ・菊之城 ・打越城 ・寺尾野城 ・鷹取城 ・宇土古城 ・古麓城 ○お寺
・悟真寺
○神社
・菊池神社 ・北宮神社 ・杵築神社 ・流川熊野座神社 ・守山八幡宮
○その他
・福童原の戦い ・水島の戦い ・千布・蜷打の戦い ・託麻原の戦い ・板井原の戦い ・遙拝所 |