第13代当主



0.藤原政則  1.菊池則隆  2.菊池経隆  3.菊池経頼  4.菊池経宗  5.菊池経直 
6.菊池隆直 7.菊池隆定  菊池隆継  8.菊池能隆 9.菊池隆泰 10.菊池武房
 菊池隆盛 11.菊池時隆  12.菊池武時  13.菊池武重  14.菊池武士  15.菊池武光
16.菊池武政  17.菊池武朝  18.菊池兼朝  19.菊池持朝  20.菊池為邦  21.菊池重朝
22.菊池能運   宇土為光 23.菊池政隆   菊池武経 24.菊池武包   菊池義武

生没  1307年〜1339or1341年。母は赤星有隆の女説があるが、それだとつじつまが合わないのでもっと身分の高い誰かか。妻は万里小路藤原宣房の女、星野実秀の女。
生涯  鎮西探題襲撃に従軍するが、少弐大友の裏切りにあい、袖ヶ浦で父・武時に「菊池に帰りな!」と後を託される。自身は阿蘇惟直と共に神埼経由で海路肥後に上陸、敵襲に遭うが金峰山をうまく利用して逃げ菊池にたどり着いた。しかし別ルートをとった一人っ子は筑後横隈で殺されてしまった
 その後もすぐに追っ手がやってきたため、本拠深川城(菊之城)を捨てて山中に身を隠した。この時深川城は焼かれ、母は自刃したという。
 しかしその後、北条高時の死が伝わると、あっさり少弐大友の矛先は鎮西探題へ。探題北条(赤橋)英時をあっさり討ち果たしたのは武時の死後わずか70日だった。太平記もあきれとったわ…。

 ともあれ、父の功により肥後守に任命される。足利尊氏が後醍醐天皇と対立した際は上京し、足利尊氏討伐の新田義貞の軍に従い数多くの功を挙げた。箱根の戦いでは足利直義相手に考案した「菊池千本槍!」でツンツンし、敵を「遙かの峰へまくりあげ」た。さらに新田義貞の撤退を支援し賞賛された。しかし淀では大叔父・武村を失うなど厳しい戦いを強いられるが、北畠顕家の援軍で息を吹き返し尊氏を撃破した。

 一方九州では、逃げてきた尊氏を弟の武敏が迎え撃つが、不死鳥武敏(詳しくは武敏の項参照)と言えども、大軍の指揮は向いていなかったか。武敏は大敗し、尊氏は息を吹き返してしまうのだった。復活した尊氏と武重は備中福山城に戦うが、尊氏がその後どうなったかはご存じの通りだ。

 さて、武重は帰国後犬塚原で大勝するなど、すぐに南朝勢力をまとめ上げるのに成功している。さらに菊池一族の分断を狙って、伯父時隆の仇の子孫・甲斐重村が幕府側の肥後守護として送り込まれてきたが、鞍嶽の麓でこれを撃退した。この時すでに病を患っていたという説もあり、30歳ちょいで死んでしまう(諸説有り)あたり、やっぱりツイていないのか…。

 武重は戦だけの人間ではなかった。大智を招いて精神的支柱とし、彼の『菊池家憲』は五箇条のご誓文、大日本帝国憲法制定の際に参考にされたのだ、えっへん。
エピソード ・菊池千本槍と言えばしげちー。「三十余人太刀・長刀の鋒を並べ」たそうだ。槍を使った戦いは以前にもあったようだが、槍を組織的に運用したのがこれが初めてだとされる。菊池家は武房の時に元軍と槍との戦いを経験していたのだ。
・娘の重子さんは懐良親王のお妃様になったようだ。でも重子って、武重の子ということで勝手に後世付けられたんじゃないよね…。
・意外ときかん坊だったようで、雑訴決断所から「詫磨氏に大浦・皆代の地頭職を渡すように」とのお達しがあったにもかかわらず、突っぱねて困らせている。朝廷萬歳じゃなかった訳ね。
・五家荘の存在を知ったしげちーは、わざわざ寄合衆と評定し、しかもみっくんを寄せ手の大将として攻撃しようとした。そこに尊氏が九州に落ちてきたということで急遽中止となった。これはさすがにウソっぽい。
・菊池家憲(寄合衆の内談の事)は横井小楠から由利公正へと紹介され、第二条の「国務の政道は、内談の議を尚すべし。武重すぐれたる議を出すというとも、管領以下の内談衆一同せずば、武重が議を捨てらるべし」が五箇条のご誓文第一条に影響を与えた。同一箇所を読んだ伊藤博文が大喜びし帝国憲法制定の際に参考にした。しかもこれは現存する最古の血判書でもあるのだ!
力量のない人間は潔く家督を辞退して兄弟か一族の誰かに譲れ!と言い残してしまったため、弟・武士は…。
関連史跡 ○お墓
東福寺歓喜院
○お城
木葉城 ・戸代山城 ・大善寺城 ・苅田松山城 ・寺尾野城 ・備中福山城
○お寺
東福寺 ・聖護寺 大円寺
○神社
菊池神社 ・金峰山蔵王権現社 ・高平神社 ・日岳五社宮 ・六殿神社 ・大将陣神社
○その他
竹之下の戦い ・犬塚原の戦い ・東莱邑城 ・休み石