生没 |
1292年〜1333年3月13日。母は式部大輔家愛の女と伝わる。妻は松島御前(慈春)、他にもたっくさんいたことだろう。 |
生涯 |
贈従一位。幼名次郎、正龍丸。法名真空寂阿。
父と兄が早世したため、13歳で家督を継いだ。それもあって空しく思ったのか、若くして頭を丸め、山鹿の日輪寺を再興したりしている。それにしては子だくさんだが。
幕府との関係は疎遠どころか密接だったようで、鎮西探題の命で土地争いの調停役をしたりしている。
しかし稀代のトラブルメーカー、後醍醐天皇(尊良親王とも)の綸旨を受け、人の良い武時は「よっしゃ」と博多の鎮西探題を襲撃した。博多日記や太平記によると結構良いところまで行ったようだが、大友、少弐の裏切りに遭い失敗してしまう。
探題府から騎馬で逃れる際、六本松付近で首が落ちたのに気がつかず、七隈までそのままたどり着いたというエピソードを持つ(脚色あり)。誰か教えてあげてよ…(誤解だけど)。
ともあれ後事を武重に託し菊池へ帰らせ(袖ヶ浦の別れ)、自らは子・頼隆、義弟・寂正らと壮烈に戦死。かっけぇ…。その遺志はしっかりと武重、武光に受け継がれたのでした。
後に楠木正成により「何だかんだと言って、生きている我々に対し、命をなげうった武時が一番!」と賞賛されたらしい。ただし、これは武朝の作り話の可能性もある。ともあれ、密接だった探題との縁を切ってまで戦ったということで、息子達は大きな恩賞を受けることになった。 |
エピソード |
・子だくさん。15(16)男1女!X遺伝子大勝利!
・探題襲撃当日、場所を間違えて櫛田神社に行ってしまったおっちょこちょいさんだが、前日に探題館に行って下広田なんとかさんと「遅刻!」「いや遅刻じゃない!」の押し問答をやっているわけなので場所を間違えるわけがなく、作り話だとの説がある。
・「日本一の不当人共!」とは少弐、大友めらのこと。裏切りを知って二人をこう罵り、そんな奴らを頼んだ自分が馬鹿だったと憤激したという。
・とっきーが探題館を襲撃しようとした際、櫛田神社の前で馬が動かなくなった。びびる家臣達を前にとっきーは「今から義挙をなすのに邪魔だてするとは何事か!この武時の正義の矢を喰らえ!(管理人による脚色大)」と矢を二本、門にはなったところ、馬は動くようになり士気が上がった。後になって、門には射られた大蛇が確認されたとか。なお、菊池寛も平泉澄も「武時がそげなことするわけなかろうもん!」とそろって否定している。 ・探題襲撃前、阿蘇神社に矢と「武士の上矢の鏑一筋に思ふ心は神ぞ知るらむ」という歌を奉納しているが、効果はあったのかどうか。櫛田神社に鏑矢を2本ぶっ放したから御利益が消えたのかも。
・「袖ヶ浦の別れ」は楠木親子の「桜井の別れ」より先だということは菊池の誇りのようだが、たぶん太平記の作り話。
・山門を玉名の願行寺に寄進しているが、その時雹が降ってきたという。 |
関連史跡 |
○お墓
・胴塚 ・首塚 ・日輪寺
○お寺
・願行寺
○神社
・菊池神社 ・玉名大神宮 ・阿蘇神社 ・櫛田神社
○その他
・遙拝所 ・三賢堂 |