生没 |
1321年〜1401年(?)。母は武重と同じということは、赤星有隆の女説があるが、それだとつじつまが合わないのでもっと身分の高い誰かだろうか。武士の子孫は母を大納言宣房の女としているが、これは武重公の妻だから誤りでしょう(あったとしても義母)。妻は菊池武澄の女、隈部隆忠の女という記録がある。 |
生涯 |
贈従五位。幼名又次郎。法名寂照。
正腹の子ということで兄たちを差し置いて家督を継いでいる。武重とは親子ぐらい年齢が離れているとも言えるので、やっぱり養子になったのだろうか。それなら母=大納言宣房説もしっくりくる。
ともあれ、兄たちをごぼう抜きして家督を継いだものの、やっぱりツイていない、継いだ時期が悪すぎた。
教養はあったのかもしれないが、何せ動乱の真っ直中。経験豊富な武敏が頑張って軍事面を支えたが、途中から武敏の姿は見えなくなり(死去か)、管領武茂は軍事面では頼りにならず、いよいよピンチ。
さらに武重が残してしまった遺言もあっため、家臣団から隠退勧告がなされてしまう。武重は武士を見限っていたと勘ぐられても仕方がない遺言内容だ。
早くも武士は後継についての譲状を出し、末弟・乙阿迦丸を養子として第一候補、さらに弟・武隆第二候補とすると宣言するなど、リーダーシップを発揮できたとは言い難い。それでも何とか大友氏泰の侵攻を撃退するものの、武茂の筑後進出は失敗に終わり、そして主力菊池武豊を遠征に出している間に合志幸隆に本城深川城を奪われるという戦略ミスをやらかしてしまう。いよいよ追いつめられた武士はくそ真面目におれは愚昧だから「器用の仁」に家督を譲ると宣言したのでした。
最終的には、本城を奪還した武光が家督を奪った継いだのを機に、早々と出家した。
と言いながら、なんと出家してスパイ活動をしていたという説もあるらしい。それが本当だとしたら、食えぬ御仁だ。
しかし正直、この人には同情している。武重、武敏の2人がかなり無理をした後を若くして任されたわけだから。 |
エピソード |
・団結して苦難を乗り越えようと、庶子家の発言力を認める譲歩した内容の起請文を残しており、約束を破ったら天罰くださいというM気にあふれていることから「天罰起請文」と呼ばれている。しかし、これを読んだ管領武茂は怒ったと思う。
・30年ぶりに菊池に戻り、大円寺の桜を見て「袖ふれし花も昔を忘れずば 我が墨染をあはれとはみよ」と詠んでいる。 |
関連史跡 |
○お墓
・正福寺
○お城
・深川城
○お寺
・祇陀寺 ・大円寺
○神社
・菊池神社
○その他
・遙拝所 |