生没 |
1383年〜1445年3月8日。母は宗盛義の女。妻は河尻広覚の女。 |
生涯 |
従四位下、肥後守、右京大夫。法名旭山元朝、または透関道徹居士。
武朝の死後家督を継ぐが…、これまた24歳と若い!
兼朝はひたすら反幕府を貫き、少弐とつるんで大内盛見を後見とする九州探題渋川義俊、幕府と結ぶ大友親世と戦いまくり、箱崎宮を炎上させるなどのやんちゃもやらかした。
特にわざわざ豊前馬ヶ岳まで出張って幕府側についていた新田義高と争い、新田氏を滅ぼしたのは執念としか言いようがないか。
子・持朝と争ったという説がありますが、最後は佐敷城か兼丸城に隠居し、佐敷山中で死去したという。 |
エピソード |
・子に菊池持朝、新宮忠親、高瀬泰朝、東武弘、西武明がいるが、息子との関係、そして息子同士の関係は良くなかったようだ。忠親は兼朝が持朝をして自害を命じたという説もあるし、持朝と泰朝は後に持朝が泰朝の命を薩摩まで付け狙うことになるし、その持朝とは後に関係を悪くして追放されたという説もある。
・持朝とは幕府との関係で揉めたという説があるが、当然兼朝は反幕府だ。 |
関連史跡 |
○お墓
・正善寺 ・千寿庵
○お城
・馬ヶ岳城 ・戸城山城 ・佐敷城 ・兼丸城 ・川尻城
○お寺
・成道寺
○その他
・駅館川の戦い
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