第16代当主


0.藤原政則  1.菊池則隆  2.菊池経隆  3.菊池経頼  4.菊池経宗  5.菊池経直 
6.菊池隆直 7.菊池隆定  菊池隆継  8.菊池能隆 9.菊池隆泰 10.菊池武房
 菊池隆盛 11.菊池時隆  12.菊池武時  13.菊池武重  14.菊池武士  15.菊池武光
16.菊池武政  17.菊池武朝  18.菊池兼朝  19.菊池持朝  20.菊池為邦  21.菊池重朝
22.菊池能運   宇土為光 23.菊池政隆   菊池武経 24.菊池武包   菊池義武

生没  1342年〜1374年5月26日。母は阿蘇氏の女とも言われるが不詳。妻は恵良惟澄の女。
生涯  贈従三位。肥後守。幼名次郎。法名志行。
 筑後川の戦いでは夜襲部隊に抜擢されたことになっているなど、父武光と共に若い時からこき使われた頑張った人だ。今川貞範が高崎山に入ったときも、最初に派遣されている。しかし落とせず、武光が増援に来た隙に筑前、肥前から今川勢の上陸を許してしまうことになる。
 さて、その後大宰府を撤退し高良山に入ることになるが、実は武光の功績で豊前、豊後ではかえってまだ宮方が優勢だった。
 しかしいつの間にか武光が死去したため(生前に既に家督を譲られていたという説もある)、武政は30前後の若さで家督を継ぐことになった。しかも今川貞世という強敵を迎えた中で。

 武光の死を隠し高良山で戦い続ける中、菊池武安と共に後方の肥前攪乱を試み、そのため貞世は高良山攻撃を遅らせる必要に迫られるなどの成果を上げている。しかし武光の死が漏れると離反が相次いだようで、阿蘇惟武には必死に書状を送って助けを求めている。
 しかし父の死後間もない文中3(1374)年5月26日、33歳で没したのでした。なんか一族の皆さん、短命すぎませんか?
エピソード ・文中2(1373)年5月の阿蘇惟武に対するお願いメールの中で、「眼が病んでいるから書状を読めない」と告白している。32歳で眼をやっているなんて、よほどの疲れとストレスがたまっていたのか。しかしその間誰が戦いの指揮を執っていたんだろう?
関連史跡 ○お墓
 ・正観寺
○お城
 ・本告城 ・隈府城 ・毘沙門岳城 ・杉城
○お寺
 ・悟真寺
○神社
 ・菊池神社
○その他
 ・筑後川の戦い