生没 |
1053年~1105年。母は葉室親通の女。妻は式部少輔則宗の女。 |
生涯 |
則隆の子。従四位下、警固太郎、兵藤警固太郎、肥後守。幼名三郎。
兄貴・政隆が藤原定任暗殺で立場を悪くしたため、家督がまわってくるというラッキーに恵まれる。
ラッキーはこれだけではない。刀伊の襲撃を撃退したのは政則や則隆の功績だが、なぜか経隆も頑張ったことになっている(『九州治乱記』、志岐氏版『武朝申状』)。これは父と祖父の功績を後世になって加えられたというのが定説らしい。これは西郷、小島を除く一族の祖となっていることから、一族が共有できる祖霊とするために功績が脚色されたと考えられている。それもあってか、とにかく彼を祀っている神社が多いのが特徴。 |
エピソード |
・刀伊を撃退した際(してないけど)、紫縅の鎧をさっそうと身にまとい、白葦毛の馬にまたがり、敵将の足の裏を射て討ち取ったらしい。この高等技術、藤原定任を暗殺したのあんたじゃないの? |
関連史跡 |
○お墓
・出田若宮神社
○お寺
・春日寺 ・円通寺 ・妙法寺
○神社
・清水若宮神社 ・赤星菅原神社 ・天神平今宮神社 ・四宮神社 ・玉名大神宮 ・須賀神社 |