生没 |
1146年〜1188年(?)。母は左中将頼永の女。妻は赤星経俊の女。 |
生涯 |
従五位下、肥後守。幼名二郎とも九郎とも。菊池一族の「曩祖」と称せられる。
1160年にやっぱり若くして武者所。
平清盛の九州、肥後への介入に対し、一族の山鹿秀遠は従ったけれども、そこはやっぱり当主!自分の権益を守るためではない!清盛を討て以仁王に言われたから!と九州の諸勢力を率いてかっこよく反平家の兵を挙げる。大宰府は攻め落とせなかったものの、まじやべぇと思った幕府は隆直を肥後国司に任命して懐柔しようとしたが、そこはやっぱり当主!全く言うとおりにはしなかった。
しかしやんちゃが過ぎたのか、肥後国司は解任され、さらに平貞能の遠征軍がやってきてしまった。菊池に引きこもり何とか防衛していたものの、飢饉の上、徹底した兵糧攻めにあう。農民までもが平家に徴発されるのは見るに堪えない、これも民のためだということにして降伏することにした。清盛も死んで戦う意味もなくなったし、平家ではなく安徳天皇のためだし、決して変節ではない(震え声)。
さて平家方に付いたはいいが、今度は源氏がやってきてしまう。隆直は京都から九州に戻り、「大津山の関をあけてくる」と言ったきり、出てこなくなってしまった。もちろん、屋島には水軍を送るなどアリバイは作っていたが、その過程で嫡男隆長は備中水島、三男秀直は壇ノ浦で戦死してしまった。
隆直の死には諸説ある。@緒方惟栄に攻められ菊之城で自刃。A「こいつ、裏切り者だよ!」とキレた緒方惟栄が源義経に「隆直を殺したらあんたに協力するよ」とせっついたため、京都八条(六条とも)河原で斬殺されてしまった。B義経が京都を逃れるときに隆直に協力を要請したが、拒否したため、弁慶らに攻められて六条河原で討たれた。C家督を次男・隆定に譲って山鹿で43歳で死去。 |
エピソード |
・縁起が悪いと、家紋を日足紋から並び鷹の羽紋へ変更したのは隆直という説がある。たしかに変えた方がよかったかもね。
・阿蘇に参詣した際、神酒を頂く土器の上に鷹の羽が落ちてきたのをきっかけに、家紋を鷹の羽に改めたという。そのとき詠んだのが「あさくともふかくたのめや菊池川 阿蘇の煙りのたえぬかぎりは」であるとか。 |
関連史跡 |
○お墓
・正蓮寺
○お城
・菊之城(深川城) ・大津山城
○お寺
・相良寺
○神社
・玉名大神宮 ・上長田両諏訪神社 ・江栗阿蘇神社 ・阿蘇神社
○その他
・トビカズラ |