生没 |
1409年〜1446年7月28日。母は河尻広覚の女。妻は読んだ文献にはことごとく載っていなかった。 |
生涯 |
従四位下、肥後守、左兵衛督。法名霊染阿三蘇光。
父・兼朝から一転して幕府に協力、大友持直と戦い、筑後守護職をゲットするのに成功する。菊池が足利幕府の要求に応じたのはこれが始めてのことだから驚きだ。
急激な方針転換から、兼朝との間に対幕府方針を巡っての対立があり、持朝が兼朝を追いやったとの説もあるが、家督を継いだ持朝はまだ15歳ですぜ。どんだけ大人びているんでしょう…。
他にも息子達を遠い一族に養子として送り込み、独立性を抑えようと試みた。
ただ、弟・新宮忠親や高瀬泰朝と貿易の権益を巡って争い、忠親を殺しちゃうわ(連絡の行き違い説あり)、泰朝が相良領の佐敷に逃れたときには「そいつ殺してよ!」と執拗に要求したあたり、結構気性の激しい人だったのかもしれない。
ともかく正観寺の和尚さんに「此一人文東武西之名冠干彼九牧」と褒めちぎられ(意味は忘れた)、菊池後期の名将と言われた持朝も38歳で死去。つくづく短命な一族だなぁ。 |
エピソード |
・父がつるんでいた少弐とは縁を切り、それどころか大内と一緒に少弐教頼を生の松原でやっつけたりしている。
・弟である泰朝が薩摩逃れた時、「殺して」と相良氏に手紙を送ってり、同時に佐敷に残っている泰朝の一族まで「殺して」と言っている怖い人。
・大友親綱が肥後に逃れてきたのを保護してあげた優しい側面もある。しかしその見返りに筑後守護職をもらうなどちゃっかりしている。
・一族の肥前家に為安、託麻家に為房、宇土家に為光、木野家に相直と息子を送り込んで支配を強めようとしたが…。 |
関連史跡 |
○お墓
・光善寺
○お寺
・長福寺
○神社
・下庄八幡神社 ・阿蘇三社宮
○その他
・生の松原 |